ローマの信徒への手紙11章16-24節、ゼカリヤ書1章2-3節「慈しみと厳しさが共に」

22/1/30主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章16-24節、ゼカリヤ書1章2-3節

「慈しみと厳しさが共に」

十字架のもとに留まり続ける。十字架のもとに立ち続ける。それが、「神様の慈しみと厳しさを」感謝と畏れをもって思い続ける助けになります。つまり聖なる神様に向き合って生きる助けとなります。

神様が、全ての人の罪の裁きを、永遠の御子に代わりに負わせて裁き死なせられた慈しみと厳しさ。それは御子が代わりに死んでくださった慈しみであり、また御子が死ななければならなかった厳しさです。罪が裁かれなかったら、正義はないし、神などいないのです。罪の被害者に泣き寝入りをさせない正義の裁きをなさる神様を、でも信じない異端、あるいは神は愛だとは言うのだけれど、罪も裁きをも曖昧にする異端が一方にある。かたや正しさは求めるが愛を忘れた、いや人を裁くことを愛する異端があるとも言えるでしょう。どちらも嘘の神を信じている。いや、私たちに御言葉によって向き合われる神様に、はいと向き合ってなくて、御言葉に自分を当てはめず、自分の考えに神様を当てはめて、これが神だとやってしまうのでしょう。その罪から、でも誰が逃れられるでしょうか。この人は罪も正義も曖昧にして、けんどあの人は厳しい裁きだけで愛がないと、まあ結局、自分は正しいけどと上から誇って、十字架の神様から「思い上がってはなりません」と言われん人はおらんのでないかと思います。だから、十字架のもとに留まり続けるのです。十字架でご自身の慈しみと厳しさを示された神様を、どちらが欠けても嘘になる、十字架の神様を思い続けて、離れんためにです。

ところが、十字架の神様の前に留まるということは、なかなかできんと思うのが、信仰者の正直な思いかもしれません。できんですよと牧師から言われて、ほっとした瞬間に、はい畏れがない、というひっかけはせんので(笑)、そこは安心して、なかなかできん自分の現実に、まずは向き合って欲しいのです。自分は大丈夫と思うところに、嘘が産まれ、人と比べて思い上がる、その罪のパターンにこそ、ひっかかって欲しくないからです。自分は罪を犯しても大丈夫じゃない、神様は正義の神様であられて、赦しはされても、裁きがなくなるわけではない、被害者がいなくなるわけではないことを、十字架のもとで畏れつつ、襟を正して御言葉の神様に向き合うのです。そこから、つい嘘の信仰に陥りやすい信仰が、キリストを信頼する信仰として、与え直されるからです。

「留まる」という言葉が今朝の御言葉に繰り返されます。イエス様が「わたしにつながっていなさい…その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15章)とおっしゃったのを思い起こしても良いのです。あれも「わたしに留まりなさい」という言葉です。

ところが23節では「彼らも不信仰に留まらないならば」、神様の救いの選び、神の民に接ぎ木されるようになると言う。つまり、留まるのは必ずしも、イエス様と一つに結ばれた信仰に留まるのではない。不信仰なんかに留まっていると言うのです。

聖書の教える信仰は、繰返し申しますが、自分が持っているモノではなく、イエス様との信頼の絆、信頼の関係を、短く信仰と言うのです。その内容も、例えば十字架の信仰と短く言ったりもしますが、十字架の神様との信頼関係を抜きにした十字架の信仰は人を救いません。内容が実を結ぶのではなく、信頼関係によってつながったイエス様から、枝に養分が与えられ、枝は永遠に生きる。救いの実を結ぶからです。だから22節で「神様の慈しみに留まるかぎり」というのは、罪の裁きを受ける私には、だから代わりに裁かれて死んでくださった十字架のイエス様が必要ですと、神様が御子によって差し伸べられた手に、私の罪をお赦しくださいと飛び込んで、抱きしめられ一つに結ばれる関係があること。実が結ばれるのは、このイエス様との信頼の結びがあるからです。そのイエス様に留まる。主との信頼関係に留まる。それが信仰です。

なら、不信仰に留まるとは、何に留まっているのか。まるで枝が空中に留まっているような、何もない空っぽに留まっているような、魔術のような留まるじゃないか。すぐ隣にはイエス様がおられて、イエス様によって父が「不従順で反抗する民に一日中手を差し伸べて」おられるのに、その手がない空っぽの、神様との信頼関係がない、いや関係が何故必要なのか、私は悪くないから大丈夫と自分を信じる信仰に、十字架の神様との信頼関係が、ない信仰に、魔術のように留まっている。それが不信仰に留まるということでしょう。

前に、霊的2歳児と表現したことがありますが、何でも自分で自分でとやりたがるお年頃で、例えば車のチャイルドシートに乗せようとして抱き上げると、自分で自分でと暴れて落ちそうになるので、自分でよじ登るのを待ってシートベルトをしようとすると、自分で自分でと、反り返って暴れて、シートから落ちて、最初からやり直し。あるいは親の腕に抱かれた幼子が、いやいやと反り返って抜け出そうとして、あたかも活きの良いカツオがビチビチ跳ねるのを必死で抱きかかえている親を、ご覧になったことないでしょうか。また、そんなこと神様にしたことがないと言える人が、おられるのでしょうか。毎日の生きる態度、人との関係、また礼拝生活も、御言葉によって向き合われる神様の御腕には、まるで留まりたくないのだと反り返り、自分でできる、大丈夫だという不信仰と、私は無関係だと言える人はおらんから、だから主は十字架によって招かれるのです。わたしに留まりなさいと。

20節2行目に「あなたは信仰によって立っています」と言われる信仰を思う時も、その信仰によって立っている自分を、十字架のもとに留まって見るならば、そこには必ずイエス様がおられて、むしろイエス様が立っておられて、その御腕に留まっている私たちが見えるのでしょう。

神の民として選ばれていたユダヤ人という枝も、選ばれていなかった異邦人という枝も、あるいはどこの誰という枝であっても、自分だけで聖い枝などない。根が聖いから、だから根に結ばれた枝も、聖なる神様の枝になるのです。つまり神様から、あなたはわたしとの信頼関係によって結ばれた、わたしのもの、わたしは主、あなたの神だと、我が子を抱く父として、私たちは慈しまれ、その関係に保証されて祝福されるのであって、自分の行いによるのではない。良いことをしたら留まっていることになって、悪いことをしたら留まってないのではない。十字架の神様から差し伸べられた信頼関係に留まること。十字架の憐れみによって向き合い続けておられる神様を信頼して、父よと向き合い、ごめんなさいと向き合い、ありがとうございますと十字架のもとに留まること。それが、私たちとの信頼関係を、命を懸けて求めて下さったイエス様に留まる慈しみに満ちた信仰だからです。

神様の厳しさを考える時も、十字架に留まって考えるから、こう断言できるのです「神様は彼らを再び接ぎ木することがおできになる」と。厳しさとは、断崖絶壁の切り立った妥協なき峻厳な様を言う言葉です。その切り立った険しい罪の贖いの道、十字架の救いへと、御子が私たちに代わる代表、主として、飛び降りるようにして来て下さり、全世界の一切の罪を負われて、罪人の代表として父から棄てられ、陰府へと降り落ちて裁かれて死んで下さった。その厳しさを、私たちのために受けられた主が言われるのです「思い上がってはなりません」「神の慈しみに、わたしに留まりなさい」。何と慈しみ深い救いの言葉かと思います。

この信頼に留まって、祈りに留まって、愛する人々の救いに生きるのです。何故なら十字架の神様は愛する者たちをキリストに結びお救いになることがおできになる方だからです。