ローマの信徒への手紙11章13-16節、エゼキエル書37章1-6節「キリストの救いの奇跡」

22/1/23教会設立記念礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙11章13-16節、エゼキエル書37章1-6節

「キリストの救いの奇跡」

24年前の1月25日に高知東教会が教会として歩み出したことを記念する礼拝を捧げています。これを形だけの記念にしないため、改めて、神様の前で私たちが記念するとは、何をするのでしょう。例えば聖餐式の毎、イエス様が「わたしを記念してこのように行いなさい」と言われた御言葉にお従いする。イエス様の死を何度も心に刻み直す。忘れないようにする。何故イエス様が死なれたのか。何故、私はイエス様に死んでもらわなければならない者なのか。それを、頭で覚えていても、体が忘れ、命の姿勢、態度が忘れていると、形だけの記念になってしまう。

その罪の自分を、なのに憐れまれ恵みによって救って下さった神様を体が肉が心が、忘れても、ごめんなさいと立ち直れるように、わたしのもとに来なさいと聖餐式が制定された。同じように、高知東教会が何故ここに設立されたのか。何故ここで礼拝を捧げ、何を祈り、誰のために御言葉を聴くのか。体が、生き方が、その何故かを忘れないようにするため、設立記念礼拝を捧げるのでしょう。それは、主がこの教会を用いられて実現されていく、救いのご計画があるからです。言い換えれば、私たちが自分たちの計画や願い、また生きる目的を思う時、それを根底から導かれる、主のご計画があることを、忘れないためでもあります。

人は誰も、自分のためだけには救われんのです。救われたのには目的があります。それを選びと呼ぶことをこの御言葉から聴いてきました。選ばれているはずのイスラエルが、なのに救いに従いゆうつもりで神様のご計画であるイエス様を退け従ってなかった。なので、選ばれているのに今は拒絶されて、逆に従ってなかった異邦人が選ばれ、15節で言う「世界の和解」のため、すべての人が神様と和解するためのご計画に、教会として用いられている。そこに私たちもいるのです。

でも日本ではなおの事、その捨てられたイスラエルの救いを祈るとか同胞のためと言われても、他人事に聞こえる異邦人もおったのかもしれません。もし、神様のご計画まで他人事に思われるなら、です。それがこの御言葉の急所であり、訴えです。自分たちにとっては他人事でも、神様にとってはどうなのか。御子を代わりに棄てられた神様のお気持ちを、そこで忘れてはいないか。イスラエルの救いは他人事に思えても、私たち自身の家族の救いであれば、他人事ではないのと同じです。家族の永遠を思う時、パウロが同胞のことを「その幾人かでも救いたいのです」と言った言葉さえ、あるいは呑気に思えるほど、幾人かじゃなくて家族皆に救われてほしいと祈ってないでしょうか。私も皆さんの家族の救いのために祈っていますが、誰かから、私の家族の救いを祈りますと聴く時に、本当に頭を下げてどうかお願いしますと感謝するのは私だけではないと思うのです。まして、神様は!神様のお気持ちが、御心が、ご計画が、その祈りと献身で一体どれほど満ちるか。神様にとって、命を退け死んでいた人が命を得て生きるとは、一体どれだけ満ちるのか。それが御子を棄てられたゴールなのです!全ての選ばれた者、教会は、このゴールのために選ばれている。それが神様の、命へのご計画です。

その命のご計画の中で、同胞に、自分こそ選ばれているのにと妬みを起こさせて救いに導くというご計画が繰返し言われます(10章19節)。私たちで言えば、聖餐式のパンと杯を、まだ洗礼を受けてない人は受けられない、それで小さな子供が、私の~(笑)言うて泣くことがある。求めているから。なのに得られないから。でもそれは、神様こそ、そうなのです。人を命に向けてお造りになられた命の主が、あなたの心を、あなたの永遠を、あなたの救いをと求めておられるのに、得られない。神様はその激しい愛ゆえに妬まれる神様です。あなたは我が子ではないのかと。その神様を我らの父と呼ぶ私たちは、その父のお気持ちをどうやって、どんな命の姿勢で人々に知ってもらえるよう生きるのか。人が私たちを見て、教会は自分が持ってないものを得ていると妬みを起こさせる生き方は、どうやって得られるのか。それを私たちもまだ得てないのか。決してそうではない。まるで得てないようでいて、見よ、私たちは、わたしを忘れるなとお命じ下さる十字架の神様、死者の中からの命であられる主イエス・キリストを既に得て、死んでいるようで、生きている!死んでいるような私たちの内に主が生きておられて、もし今も、自分は死んでいるようだと思うなら、十字架の憐れみに、ごめんなさいと急げばよい。私たちの父は、放蕩息子を抱いて受け入れた父として、「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(ルカ15:24)と、永遠の喜びで喜ばれる憐れみ深い父だからです。

その父を愛し、イエス様に生かされて、だから生きている命を見て、あの命は私にも起こるべき命ではないかと、かつて死んでいた教会の、ごめんなさいを見て、神様の愛を見て、あれが私の命だと、幼子のように求めること。それが聖餐式で、礼拝で、生ける神様の御臨在の前で、神様の幼子たちに、神様が起こされることです。だからこそ神様の救いへの妬みを起こさせる、死者の中からの命の悔い改めと信頼、神の子の命に教会は生きるのです。私たちの命、いや世界の命であられる救い主イエス・キリストの名を呼んで、この命をのみ求めて生き、また生かされているから求めるのです。

私たちが死んでいたのに生き返ったのは、そのためです。そのために文字通りキリスト者は生かされ、教会は生きている。この命によって、この命を献げる救いへの献身によって、何とかして幾人かでも救いたいのですと、神様の救いのご計画にお従いする教会を通して、十字架の命は満ちるから。そこに命はあるからです。