マタイによる福音書3章1-12節「石の心も新しく生きる」

22/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書3章1-12節

「石の心も新しく生きる」

年が改まって最初の礼拝を捧げるにあたり、このクリスマスはマタイによる福音書から御言葉を聴きましたが、あ、この元旦礼拝の御言葉もマタイの、ここがいいなと導かれました。11節で「わたしは、悔い改めに導くために、あなたがたに洗礼を授けている」と洗礼者ヨハネが言いました言葉。「導くために」と訳された言葉は、~に向かって、~の中に突入して、という言葉です。それを「導くために」と訳したのはとてもわかりやすいと思いました。

向かって、あるいは導くということは、まだそこに達してないこともある。いやむしろ、そんな簡単に自動で、はい、もうそれを得ました、終わりということではないから、そこに向かい、導くのでしょう。

悔い改める。わかってはいるのです。毎週の礼拝で司式者が祈られる祈りでもある。じゃあ、できているか。できてないなと思って、それも悔い改めるようなところがあるかもしれません。あるいは、もうできんとあきらめてしまうようなところがあって、しかも、それが当たり前のようになったら、意識もしない。悔い改めと聴いても、ハッと襟を正す思いから遠いどころか、人のことだと思って、洗礼者ヨハネが、まむしの子らと呼んだ、ファリサイ派の人々のように、悔い改めは他の人々ができているかどうか、してないじゃないかと裁くための言葉として心に分類されることだってあるのです。

悔いることもなく、まして改まりもしていない、同じままという罪の停滞に、あるいは心がモヤモヤしながらも、それでも年だけは改まる。何にも変わってないのに、年だけ改まってもと、新年を迎えながら妙に冷めた気持ちになるということも結構あるんじゃないでしょうか。

けれど、自分は何も変わってないのに、年が改まる。この、自分ではいかんともしがたい、年が改まってしまうことの内に、洗礼者ヨハネが説教した御言葉は、神様の恵みの音を響かせるのです。

「悔い改めよ。天の国が近づいたから」。

ヨハネは、悔い改めの根拠をあげます。何故、悔い改めるのか。もとの言葉には「何故なら」という言葉がある。何故なら天の国が、もっとハッキリ言えば、神様のご支配が近づいたから。だから悔い改めなさいと。人間の努力でどうにかなるのではない、神様がご自身の自由な恵みによって与えられる救いが、もうここまで来ているから、だから新しくなりなさいと、福音の招きが語られるのです。

これは左頁下の段17節で、イエス様ご自身が宣べ伝えた福音の言葉でもあります。「悔い改めよ。天の国が近づいたから」。

そして、ちょっと縦横無尽に御言葉を横断しますが、次の頁をめくって右の頁上の段5章3節でイエス様が「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。」とおっしゃった。この「天の国」が近づいたのです。心の貧しい、直訳は霊に貧しい、言わば天国の入口で神様にお見せできるような義しさなど持ち得てない貧しい罪人の姿を、イエス様は全く新しく描き直すようにして言われる。その貧しい罪人を救うために、わたしは天の国の王として、ここに来たから、この貧しさを代わりに背負い、代わりに罪を償って、天の国、神様の救いのご支配が、この人たちのものとなるために、わたしはあなたたちのもとに来た。だから悔い改めなさい、と言われるのです。

その悔い改めるとは、私たちが、自分が何かしなければ、自分が改まらなければと、本当は義しさも自分を変える力にも貧しいのに、自分に執着してしまう。その古さから改まり、その私たちを愛して救いに来て下さったイエス様の恵みに、執着を改めるとも言えます。自分が改まらなくても、年が改まるように、それに対して自分では何もできないように、神様の恵みも、イエス様の救いも、自分が改まらなくても、神様が私たちを愛される恵みは変わらんのです。いかんともしがたいのです。むしろ、そこまで私たちに、神様ご自身の自由な恵みによって近づいてきてくださる、そのイエス様の恵みに心を寄せて、イエス様、あなたの愛は変わりません、だから、その愛によって私を変えて下さい、悔い改めに導いて下さいと、すがり執着すればよい。ファリサイ派のような、カチコチの石のような頭と心で、けんどけんどと自分に言い続けるようなカチコチの石からでさえ、神様は、神様を信じ、その御言葉に、はいと従おうと悔い改めに導かれる神の子たちを、新しく生まれ変わらせることがおできになるからです。

人間はできません。それが人間です。洗礼者ヨハネも牧師も誰でも、ヨハネと同じく、私たちは、そんな私たちを生まれ変わらせて下さる、イエス様の履物をお脱がせする値打ちもない、貧しい罪人です。そんな私たちに、あなたはわたしのものだから、神の子としての値打ちで生きてゆきなさいと、自分から出たのでない、自分ではいかんともしがたい値打ちを与えて、神様が共に生きて下さる。だから改まれるのです。