ローマの信徒への手紙10章14-21節、イザヤ書65章1-2節「聴かない人を呼ぶ神様」

21/12/26歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙10章14-21節、イザヤ書65章1-2節

「聴かない人を呼ぶ神様」

不従順、従わなかった、という御言葉から思い出した、私の黒歴史があります。米国で大学卒業後2年間、教会関係者たちのサポートを受けながら留学生伝道をしておった時です。サポートを募る手紙を頑張って書いて、その伝道団体のボスに見せたら、幸生、ここの言い方を変えてと言われた。何と書いたか。祈って、私をサポートしなさいと主の御声を聴いたのでなかったら、無駄になるのでサポートしないでくださいと書いた。メチャメチャ恥ずかしい、何という上から目線のサポート依頼かと、思い出すだに心がザワつきますが、思い出す限り、いや、これでかまんとボスに反抗した記憶しかない。もし、私がそんな依頼書を受けたら、こんな上から目線では伝道にならんきサポートせんと思いそうです。が、何で2年間、私をサポートしてくれた人たちがおったのかと、またこんな生意気な若造を忍耐してくれ愛してくれ祈ってくれたかと、笑顔で、また真剣な愛の顔で接してくれた兄弟姉妹たちしか思い出せません。「不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べた。」その十字架の福音に、彼らは生きておったのだなと、改めて襟を正します。

この御言葉では、神の民イスラエルの問題がずっと語られています。どうして神の民なのに、その神の御子イエス様の福音に従わないのか。どうして信じないのか。キリストの御声を聴いてないからか。もちろん聴いているとキリストの使徒パウロは断言します。パウロのみならず、キリストの弟子たちは皆、あなたがたは地の果てに至るまで、わたしの証人となると、イエス様から派遣された世界の果てで、教会生活をし、福音を宣べ伝えている。だからそこで生活をしていたイスラエルの民、ユダヤ人たちは福音を聴いてないわけじゃない。

じゃあ、聴いたけど、分からんかったのか。これに対しても、いや、イスラエルの民が重んじているモーセその人が、先ずこう言っているんだから、分かっている。分かっているのに従わないのだと説得します。このモーセ(申命記32章21節)を旧約の文脈から言い直すと、本来はイスラエルの民こそが、世界に救いをもたらすために神様から選ばれた民なのです。なのにもし、その民が神様に聴き従わなかったら、神様は他の民をご自分の僕とされて、例えばアッシリアを用いて、イスラエルに正義の裁きを行われる。それに対して、イスラエルが、え?私たちが神の民、主の僕なのに、どうしてアッシリアが主の僕ながと、まるで夫が他の女性とくっついたような妬みを抱いて、あなたは私のものなのにと妬むようになる。でもそれに対して主は、あなたがわたし以外のものに身を任せ従うから、わたしがあなたを妬んでいるのだと言われる。

このことは、とっと前からモーセが言うて、こういうことになるき、聴き従わないかんことは、分かっておったはずだ。イザヤも大胆にこう言いゆうと、これはまさに教会とイスラエルとの関係に当てはめて言う言葉です「わたしは、わたしを探さなかった者たちに見出され、わたしを尋ねなかった者たちに自分を現わした」と。探し求めなかった者に主が出会って下さり、信じて救われるなら、ならばどうしてイスラエルがキリストの御声を聴いて、信じて、従えないはずがあろうかと。

これは、分かっているのに、従わないのだと、責めて、追い詰めて、ダメ押しをするようにイザヤを出したのではなくて、主が憐れみによって差し伸べられた手は、今も差し伸べられ続けていることを、信じてほしくて説得している言葉でしょう。だから、あなたも祈って欲しいと。そのことを教会にこそ分かってほしいと、パウロはこの10章を、彼らの救いを求める祈りから始めて教会を説得してきたのです。

特に、分かっているのに従わないという問題は、それは他の人の問題であって、私は関係ないと言える人はおらんのじゃないでしょうか。

モーセが律法によって示す、こんなことをしたら、こういうことになるという、神様と人間の関係、罪と罰の原則、信頼の義と祝福の法則が分かっても、それが自分のこととして心で分かり、主よ、憐れみたまえと、キリストを求めて生きるのでなければ、頭では分かっておっても、どういて分からん?という生き方の態度になる。それも私たち分かっているはずなのです。

この、分かっているのに従えない問題。先のサポートレターもそうですが、私は既に小学校四年頃こういう体験があった。風邪で休んだ次の日の算数で、割り算の筆算の意味が分からんかった。授業中、皆できているのに、私だけ一問もできん。休み時間、級友たちが私を囲んで教えてくれたけど分からん。いや、やり方は分かる。例えば23÷2の筆算の式で23の十の桁2の上に1と書き、一の桁の3の上に1と書き、割り切れないので余り1。答えは11余り1という、言わば自動的、機械的に覚えるやり方は分かる。けど、どうしてそうなのかが、どうしても納得できない。何で十の桁だけで計算ができるのか、どうしてそうなのかが納得できんから、やり方は分かっても、できるかできんか言われたら、できるけど、テストで点を取れるかと言ったら、取れるのだろうけど、したくない。納得できんき。自分が分かってないことを、分かった振りでするのは耐えがたい気持ちがあって、友達が、そうそう、そうやったらえいがよえと優しく教えてくれる笑顔さえ、うとましく思い、そんな自分が嫌で、どうしても分らん自分が惨めで、涙を隠して泣いた。

それは単に一般的な人間の心理に当てはまることでなく、ここで問題となっている、その人間の、信仰の問題もそうなのです。自分より神様を信頼することが分からんのです。特に救いについて。私もそうだったので分かるこの問題は、言わば割り算のように、自分が聖書の言う罪人に当てはまるのは分かっても、正しく頑張れば罪はチャラになるのじゃないかと頑なに信じて、罪は自分で償えない、だから聖書は犠牲による罪の赦しを最初から教えて来たのに、それがキリストによる救いだと、分からんというより、どうしても納得できない。自分じゃないのかと。イスラエルも、それこそが16節で引用されたイザヤ53章、キリストの十字架の償いの預言そのものであるのに、分かっているだろうに、いや違うと。自分を信じて納得できんのは、誰でもいつでもどこでも同じ。信じるとは、自分を信じるのでも、自分が正しいと信じることを信じるのでもないのに、きっとそれも分かっているはずなのに、自分は別と。

その私たち人間を、それでも救うと、神様は不従順で反抗する民に、一日中手を差し伸べて、御子を与えて、御子によって救われた民を救いの民、教会として召集されて、あなたがたを、あなたがたの兄弟姉妹、主を探さなかった兄弟姉妹たちのもと、わたしを尋ねなかった者たちのもとへ遣わすと、その私たちの兄弟となられたキリストの名によって、遣わされるのです。どうして彼らのもとに遣わされるか、分かっている私たちを遣わされます。神様が、全ての人を愛されて、神らあ知るかと離れていく者をこそ追いかけ、そのあなたの仲間になると、罪人として十字架で身代わりに死んで下さった神様だからです。だからあなたは死んではならないと、神の御子が死にに来て下さったクリスマスを、自分の救いとして、いや、私たちの救いだと信じる教会を、神様は、世界に向かって一日中差し伸べてやまないキリストの手としキリストの美しい足として聖めてお遣わしくださいます。

だから私たちも、クリスマスに礼拝に導けなかった悲しみで心が重くても、祈ることさえあきらめたくなる小さな忍耐に、信仰の火が揺らぎそうになっても、その火を守ってくださるキリストの憐れみ深い御手に支えられ、お頼りして、恵みの福音を信じてお従いして歩めるのです。