マタイによる福音書2章1-12節「十字架の王に出会う旅」

21/12/24クリスマスイヴ礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書2章1-12節

「十字架の王に出会う旅」

はるばる旅をしてきた、この学者たち、改めて言うまでもないと思いますが、ヘロデ王に会いに来たのではありません。また単にユダヤ人の王として生まれただけの、言わばユダヤ国家の次の王位継承者に会いにきたわけでもない。彼らは学者たちであって、国益のため国外派遣される外交官ではありません。しかも彼らがやってきた、おそらくペルシアなどと比べたら本当に小さいユダヤ、ローマ皇帝から王として任命してもらわんと王になれんようなユダヤの王の、ご機嫌取りなどをしに来る必要など、彼らにはないのです。

でも、会いに来た。いや、拝みに来た、礼拝をしに来たという言葉で彼ら自身、語るのですから、ただの王ではなく、神様としての王としてユダヤに生まれた方の星を見た。だから礼拝しに来たと言うのです。

私たちも、神様、そのような星として、導いて下さいと祈りながら、礼拝の案内を配ったり、ホームページを更新したり、私たち自身を星として下さいと祈りつつ、ここで礼拝を捧げている。クリスマスの王に、一緒に礼拝を捧げています。

ただ、これも改めて言うまでもないと思いますが、神様に礼拝を捧げることは案外、難しいことです。誰かに愛を献げるのと同じとも言えるでしょう。恋愛だけではなくて、例えば十代の頃に好きだった関白宣言という歌にこんな節がある。姑、小姑、かしこくこなせ。たやすいはずだ。愛すればいい。ロマンチックに聴いていましたが、愛することは、たやすいでしょうか。むしろ夫や妻や子、そして親を愛することに挫折しながら、愛を学ぶのではないでしょうか。

神様を礼拝することも、歌い文句だけで礼拝できるほど、たやすくはないことを、きっと学びながら、愛を学ぶように、私たちは神様を礼拝することを学ぶのです。神様と一緒に生きていく中で、愛が口だけになりやすい日常の罪の現実の中で、でも、その中でこそ愛を学ぶように、神様を礼拝することを、私たちは学んでいく。それは愛と同じで、一緒に生きていないと難しいことです。まあ、相手が人間の場合は、しかも何でそんなに自分中心なのかという罪と出会う時には、一緒にいるから愛するのが困難という、自分に愛のない現実、罪の現実も学ぶのです。でも、口だけで愛するよりは、ずっと真実じゃないでしょうか。形だけ愛する、形だけ礼拝することは、できるのです。

キリストについて調べ、学者たちを送り出したヘロデがそうでした。私も行って礼拝しようと言いながら、彼が心の中で考えていたことは、自分の王位を守ることだけであったように思えます。ヘロデは星や人を用いて人々を導かれる神様に出会うこと、つまり神様に導かれることは求めてなかったようです。導かれるということは、従うということでもあるからでしょうか。学者たちは星の導きをコントロールできませんでした。無論そうでしょう。人間は他の人をさえ思うようにコントロールできない。いや、してはならないでしょう。そこに愛はない。ヘロデがやっていたことは、でもコントロールです。口だけ、形だけの生き方が求める先もそうでしょう。本心は、自分を守ること。そのヘロデの道に如何に私たちが惑わされやすく、また迷い込みやすいことか。誰からもコントロールされたくないのに、しようとするこの矛盾。

その矛盾を、でも神様は、しかも私たちを義しく導き治める王として、この矛盾だらけの世界に来られた神様は、きっと変えて下さる、私たちを救って下さると、学者たちも信じたのだと思います。星の導きが、この神様の導きの下にあると信じるから、神様は導かれる神様だと信じるから、なら、きっとその神様に私たちは出会えると信じて、だって神様が導いて下さっているならと、王である神様を信じて、礼拝しに来る。自分は矛盾だらけでも、その矛盾を抱えたまま、罪ある私たちを救いに来られた神様を礼拝しに行く。それは私たちもまた同じです。この神様が、暗い矛盾を抱えた私たち、でも本当は愛に生きたい、真実に生きたい私たちを、罪と滅びから救い出すために、導いて、信じるようになるようにも導いて、十字架の救い主と出会い、赦しと出会い、神様の愛と出会って、その神様を、父と呼んで礼拝する旅へと導かれる神様だからです。その神様が、口だけ愛の神でなく、十字架でご自分を捨てて罪を赦して愛し抜かれて、永遠に共に生き抜いてくださる神様だからです。

その神様に出会い、キリストに礼拝を捧げたこの旅人たちは「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」と聖書は告げます。来た道とは別の道。無論、同じ場所、同じ生活に帰るのですけど、その道が前とは同じではないのです。キリストに出会う前の自分が通ってきた道とは別の道とも言えます。きっと戻っての生活はほぼ同じ。たやすく愛せないのも同じかもしれません。でもそこで愛する困難を背負っているのは、もはや自分だけではない。十字架の王が、共に愛して生き抜いて下さるから。そのために御子は私たちの救いの道として来られたからです。