マタイによる福音書1章18-25節、イザヤ書53章「人には不可能な救いを」

21/12/19降誕祭主日礼拝説教@高知東教会

マタイによる福音書1章18-25節、イザヤ書53章

「人には不可能な救いを」

先に読みました旧約の預言は、神様がどんな救い主を与えられて人を救われるかを約束された預言です。罪を裁かれるべき人間の身代わりとなって、神様が人となって死ぬから、あなたはその神様の愛の義しさを受けて、赦され、義しい者とされて救われよと神様が招いておられる。それがクリスマスです。

その神様の義しさが、ここではイエス様の言わば代理の父となるよう選ばれたヨセフの義しさと重ねられて描かれます。どんな義しさとして重ねられ、またどこが重ならないので、人間の義しさではなく、神様の義しさによって救われるのか。そこが救いの急所です。

マリアの婚外妊娠を知ったヨセフは「決心した」。決心した。強い言葉です。心に決断をした。しかも辛い決断、苦渋の決断をした。

あるいは決定したとも言えます。決定は、決めて定めることもありますが、これに関してはもう自分の中で定まっていて、ひっくり返せないほど定まっているから、こう決める他はないということが、私たちにもないでしょうか。特に正しさに関して。

マリアの夫となることが決まっていたヨセフは、妻となることが決まっていたマリアが、婚外妊娠していた事実を、表ざたにすることを望みませんでした。望む人もいるでしょう。復讐のためにそうするのかもしれません。その理由として、相手が正しくないことをしたからだと自分にも人にも言うのが復讐であることを、知らん人がおるのでしょうか。どんな復讐も、きっと自分は正しいと思ってやるのです。

けれどヨセフは、義しい人だったから、復讐しませんでした。相手を思いやる義しさ、神様の愛と憐れみの義しさにこそ生きようとしていたヨセフの義しさを、聖書が彼は義しい人だったのでと言います。それは自分の思い込みや勝手な復讐で多くの命が失われるこの国またこの世界に、ほら、これが本当の義しさじゃないかと、救いを投げかける言葉のようにさえ思えます。

けれど、その義しさでは、先に言いました、関係を終わらせる決心に勝てんのです。復讐は望まなかった。マリアを思いやることをこそ望む義しさをヨセフは持ち得ておったのです。けれど「望み」が「決心」に勝てない。これもまた私たちの知る人間の姿ではないでしょうか。

決心したという元の言葉は、すごく強い言葉で、目的を果たすための揺るがない計画をするという、例えばイエス様が十字架を前に、父よ、御心ならばと祈られた。その御心と訳された言葉と同じなのです。もしそれが父の救いのご計画であるならと。人間の変わる計画などでない、神様の永遠の救いのご計画を現わすために用いた言葉で、ヨセフは決心したと聖書は言うのです。だって義しくないことがされたと。

一方でマリアを思いやる義しさも、主の義しさに従う義しさとして、ヨセフはこれを守るのです。愛するのです。本当は一緒に愛したかったに違いないのです。もし、こんなことが起こらなかったら、当然もっと愛して一緒になっておったのにという苦しみの葛藤はあったでしょう。でも自分の義しさがそれを許さない。一緒になれんのは決定していて、望む望まないという心の動きより、ずっと深い心の奥の底で、動かない決定をしていて、どうにも動かせない。自分でもどうしようもない決定が自分の人格の根底から、それはダメだ、ノーと拒絶している。表ざたにするのは義しくないから不可能だけど、一緒になることは、それより不可能で、どうしてもその決定を動かせんのです。

無論この時点ではヨセフの思い込みなのです。神様がマリアの胎に宿られたことを彼はまだ信じてないからです。けれど、愛する義しさと、罪と妥協できない正義を踏みにじれない義しさの、共に神様由来である義しさに、ヨセフが引き裂かれていることも事実です。ならば関係が引き裂かれる他はないじゃないかと、義しさが愛したいと叫んでいるのに罪によって断たれる悲劇。それに対して人間は、相手を思いやらないことによって、あるいは罪と妥協して義しさは考えんことにして、自分のしたいことをする道を選んでしまうのかもしれません。

けれど、そもそも人間を、愛する義しさによってお造りになり、罪はいかんと義しく裁けるようにお造りになられた神様は、その義しさを罪で壊して汚して生きる人間を救われる愛の道を決心されました。しかも一切の罪の妥協なしに、罪を罪として完全に裁くことによって、正義を完全に満たして救う、十字架の救いの道をです。その真っ直ぐな愛の道が、先のイザヤ書で預言されていた、キリストの犠牲による救いです。クリスマスキャンドルの火が象徴するのは、この完全な犠牲によって、全ての人間の罪を燃やし尽くして、罪を償う、愛の正義の光です。

ヨセフが思い違いをしたように、人間は思い違いをするのです。罪についても、裁きについても、愛についても、神様についても。でもそのすべての思い違いも、また思い違い故にも私たちに起こる罪の悲劇も、神様が全部、十字架で引き受けられて、わたしが身代わりに死ぬから、あなたは、この罪から救われよと叫んで下さった。裁きから救われよ、わたしが引き受けるから。この救いのもとで、義しい愛の光のもとで、わたしと共にやり直そう、わたしがあなたたちと共にいるからと、我々と共にいてくださる神様、インマヌエルとして、主が来てくださった。だから人間は救われるのです。義しく生きようとどんなに努力しても、人間の義しさだけでは、どうしても届かない罪の解決を、神様ご自身が背負って解決して下さったからです。

ヨセフは、その神様を信じた。自分では、どうしても動かせなかった決心が、そして動いたことに、どれほど心が軽くなったかと思います。マリアに、私も神様に出会ったと言いたかったのではなかったか。

聖書は告げます「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」

人間の義しさでは、どうしても救いを実現できない。望みながらも、自分の義しさでは一緒に生きられない罪の壁、実現できない愛と救いがあることを、私たちも、痛みと共に知っているのではないでしょうか。実現できんから、せめて裁かず別々に生きようと選ぶことが精一杯で、そうやって相手を少し守れて、自分を守ることができても、共に生きることを守れない孤独な義しさを、私たちも知っているのではないのか。結局人は、自分の義しさでしか生きられないのか。結局自分か。それが神様を信じて救われる義しさだと、神様の救いさえ自分のことにして、救いも神様も自分の小さな隠れ家にして、共に生きる私たちを救えない義しさを、だから神様が、神様の義しさで置き換えて救われるのです。私たちの代わりに、私たちのために、私たちを背負って身代わりとして実現するために来られたインマヌエルが、私たちと共におられて救って下さる。孤独な個人個人を別々に救うためにではない。私たちをご自分の民として、神様の家族として救いに、神様が人となられて、来て下さった。それが私たちの代表、主としてお生まれ下さったインマヌエル、神我らと共におられる、イエス様だからです。

そのイエス様のお名前、天使が「この子は自分の民を罪から救うから」と告げた、救い主という意味のお名前を聴いたのは、もはやヨセフだけではありません。その名を聴いた全ての者が、共に、私たちと共におられる神様と共に、そのお名前を信じて祝ってよい。メリークリスマス。あなたを救う神様が、私たちと共におられます。