21/11/28待降節第一主日朝礼拝説教@高知東教会
ローマの信徒への手紙10章5-9節、申命記30章11-14節
「完全な人がいないなら」
アドベントキャンドルに一つ火が灯りました。いよいよクリスマスが近づいたと実感する光景です。12月の月間予定も出て、今年は19日のクリスマス礼拝で御言葉をマタイ福音書から聴きます。マタイ福音書のクリスマスと言えば、インマヌエル、神様が私たちと共にいてくださるというお名前で、イエス様が呼ばれる。それは、マタイ福音書の全体を貫く救いのイメージです。共におられる神様。遠くはない、近い神様が私たちを救ってくださる。遠くから、ここまで頑張って昇ってこいと、天のゴールから声掛けだけしているのではなくて、先週の御言葉4節を訳し直すと「キリストは律法のゴールです」と言われる、ゴールである神様が、ゴールのほうから私たちのところに来られて、わたしがあなたたち、すべての人の救いのゴールだから、信じなさい。わたしがあなたを罪の裁きから救うと、すべての人の身代わりとなられた。罪人として裁かれ死なれた。底なしの淵に代わりに棄てられて滅びてくださった。私たちが、滅びることのないように!そしてその御子イエス様を天の父は復活させて、信じて御子に結ばれた者たちも共に復活に生きる救いをくださった。この神様が、私たち一人一人を救うため、わたしが犠牲となったと、近く近く共にいて下さる神様です。だからその神様を、さあ一緒に信じましょうと呼びかける言葉も、ほらこんなにも近いと8節で「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」と、優しく私たちに呼びかけます。それが福音だからです。
近い言葉は信じれる。遠いと信じれん。遠い昔、昭和と呼ばれた時代にビデオテープデッキという機械がありました。ある日、遠くから家に電話して5時のアニメ録画してと頼んだら、難しいと言う。8chつけて電源と赤い録画ボタン押してと言うと、押せん壊れるき!と言う。絶対壊れんきと幾ら言っても信じない。まあ妻も友達がバター塗ったパンをトースターに入れたら、爆発する!と泣いたそうなので、ボタン押して壊れると思うのも無理はないのかもしれません。が、ここが急所です。誰の言葉を信じるか、じゃないでしょうか。あるいは誰の言葉を近くて信じられる言葉だと思い、誰の言葉を遠く信じられなく思うのか。
先に読みました申命記の御言葉がここで引用されますが、元の文脈の流れを短く言います。律法を与えられたイスラエルの民が、でも、もし御言葉が指し示す神様の義しさに従わないで、罪の義しさに従うなら、裁きが当然ある。実際、国としてのイスラエルは一度滅びます。でも!主に立ち返って御声に聴き従うなら、罪の声じゃなく、御声に聴き従うなら、どんな遠くにいても主が安息の地、約束の地に連れ戻して下さるから、あなたの神、主の御声に聴き従いなさい、というのが引用された前の部分です。が、ずっと神の民を導いてきたモーセは、民が、けんど御声に聴き従うらあ無理です、あなたはできても、私がボタン押したら壊れる!爆発するき無理、と言い訳することを、牧者としてよく知っていた。それでイエス様の憐れみに満たされ、あるいはイエス様の十字架の近さを仰ぎながら、大丈夫やき、主の御言葉はあなたたちから遠くないき、あなたの口と心にあるやか、主の名を呼べるやか、呼びなさい、主よ、あなたに聴き従いたいです、助けて下さいと、心に主を信頼して呼ぶ者を、主は決して見捨てないからと福音を語るのです。
昔も今も、こうした言い訳こそ人間にとって身近に感じるのかもしれません。神様の言うことはハードルが高過ぎる、無理と思ってしまう。そんな高いところにある義しさには、私は届かないと、自分の足りなさを思うのは、むしろ健全な自分認識でもあるでしょう。ならば、なのです。その私たちの欠けを、義しさへの貧しさを、神様がどう思っておられると認識しているか。こう思っておられると御言葉で明らかにされている神様の御声を、聴いているか。それが神様なのだと、信頼して心を傾けているか。そこが救いのハート、急所なのです。信頼する心が。
自分の心の声も色々と言うのです。無理とか。それは聴いてあげてもかまいません。神様も聴いて下さっているのです。でも自分の声ばかり聴いて、心に神様の御言葉の居場所がなかったなら、あるいは居場所が遠いなら、誰の声に聴き従うでしょうか。トンネルの中や飛行機の上で耳が詰まって、自分の声ばかり近くに聴こえる体験がある。もしその声が、私はちゃんとやりゆう、やるべきことを行いゆうき、当然天国よと思っている声なら、それが前の2節から今朝の5節で扱った問題です。義しさのハードルを自分で低くして、神の義に従っているつもりで実際は自分の義を求めているのだ、という問題。5節で「掟を守る人は掟によって生きる」と言われるのは、律法によって、あなたは義しいと神様に認められる義しさは、自分のつもりでは届かない。それは、自分の心の声が何と言おうと、それを遠のけてでも、神様の御声に、心から耳を傾けて向き合えば、明らかだからです。自分は掟を守ってない死ぬべき罪を犯している罪人だ。自分は掟によっては裁かれる者だと。
だから6節で登場する心の声は、まだ自分を正しく認識しています。誰が天に昇るか。天国に行けるほどの義しさに、誰が届くか。完全な人などおらんじゃないか。神様は無理なことを言うと、けれど、もし思うなら、自分の義しくなさは認識していても、やはり自分の声だけ耳鳴りのように響いて、神様の御声の認識が、遠いのではないか。そして御声が遠くなるにつれ近くなる心の声が、世の心の声、皆が求めている心の義しさと幸せが、だって皆やりゆうやかという強制的な義しさが、一番身近で近い心の現実となったら、本当はそれが義しくないとはわかっているのに、だって無理やかと思う。神様の義しさは、だって無理やき、あまりにも遠くて非現実的で、むしろ神様の現実から遠くに行きたいと思うことさえ人間にはある。その海の彼方で、神の義に届くようになる秘密のアイテムでもあったらえいけど、どうせないやか、と自分で答えを出してしまう誘惑に飲み込まれたら、その海の彼方と言うよりも彼岸の方向、死者の向かう滅びの陰府の淵に思いが向きながら、でもそれも非現実に思えると。御言葉が告げる現実より、誰も滅びたりはしないと思うほうが身近に思える、だって無理やもと言いたくなる。どうしても人間は言いたくなる。
その人間を、神の民であっても、御言葉より自分に身近な思いのほうを信じたくなる人間を、モーセよりパウロより、神様がご存じで、深い憐れみで愛される救い主を与えて下さった。人の罪の壁を自らに引き受けて、罪を超えて愛し抜かれる、罪よりも私たちに近い、キリストを信じる救いを与えて下さったのです。あなたたちが滅びることはわたしが一番望んでないと、捨て身で私たちの身代わりに裁かれ滅びて、棄てられるために人となられた三位一体の御子イエス様が、罪人が死んでも共におられるインマヌエル、罪人と共におられる救いの神様だからです。
だから御言葉は告げるのです。誰が底なしの淵に降るかと言ってはならない。もうキリストが行って下さったから。すべて償って下さったのだから。だから私たちはこう言って賛美しよう。イエス様、あなたこそ主、私たちと共におられる近い神様ですと。それは、もう無理ではないからです。神様が、あなたと共に生きるためなら無理なことなどないと死んでくださった。イエス様が常に私たちのために、私たちの前に常におられて、あなたの無理は、わたしが引き受けたから、ずっとわたしが引き受けるから、無理じゃない信じて共に生きられる愛の義しさに一緒に生きようと、愛の御声をかけ続けて下さっている。だから生きられるのです。この方にお委ねできると信じられるから、救われるのです。