ローマの信徒への手紙10章1-4節、詩編14篇「誰の義しさを信じるか」

21/11/21主日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙10章1-4節、詩編14篇

「誰の義しさを信じるか」

兄弟たち!姉妹たちよ!あるいは私が、皆さんと呼びかける時、ほとんどの方は顔をあげられます。他の人のことだとは思わず、自分のことだと思うからでしょう。もし私が続いて、私は私と皆さんの家族の救いのために祈っていますと言ったら、どう思われるでしょう。他人事だと思う方はおらんと思います。ただ、もしかしたらプレッシャーに感じはするかもしれません。自分は…と。無論、救われるために祈っていますと言うのは、ドヤ顔のためでも圧をかけるためでもない。むしろ家族が救われるために祈ることは、そうだ、神様ご自身の心からの願いなのだと、聴く人の思いが神様に向かうため、十字架の主に向かうためです。

今朝の御言葉はそういう説得の仕方でして、原文では「彼らのために神に祈っています」の後「何故なら」と、祈りに駆り立てる理由が2節3節4節と「何故なら~だからです」何故なら…何故なら…と積み重ねられて、アーメン!私も祈ろうと説得されるリズムなのです。

では何故、救いを祈るのか。また逆に、何故、救いを祈らないのか。祈る背後にも祈らない背後にも「何故なら」の理由または理屈がある。何かに納得しているから、あるいは説得されているから祈る、あるいは祈らない。例えば次週に続きますが、もし、誰も滅びたりはせんのだと思っていたら、家族の救いのために祈るでしょうか。

では、救いのために祈る背後には、何があるから祈るのか。まず2節で「何故なら」と、パウロは彼らが熱心に間違えているからだと「証しします」。つまりパウロ自身、熱心に間違えていたから、証しができる。しかも急所は、証しができるほど、彼らの間違いが自分のことだから、だから放っておけんのです。皆さんも、何かで苦しんだ後、同じことで苦しんでいる人を、他人事だとは思えず、その人のために祈った経験があると思います。人は、救いのために祈ることが単に義しいことだからという理由では、切実に祈れない。そんなに義しくはないのです。

私たちが家族の救いのために祈る時、どんな間違いに生きているから救われていないのだと、自分のこととして証しできるのでしょう。裁く態度で証しするのではありません。その態度では祈れんからです。

パウロが9章冒頭では自分が神様から見捨てられてもよいと思うほどに同胞が救われるようにと祈りに駆り立てられた。それは自分こそ神様の義に従っていたつもりで、従ってなかった、自分は義しいという態度でいただけで、義しいつもりだっただけだと思い知ったからです。自分は義しいつもり。先に読んだ詩編が「誰も彼も背き去った」(14篇)と嘆くのを聴いて、おそらく私たち自身、つもりの態度でいる時は、背いてはない!と、つまずきを感じるのじゃないか。自分の中では、義しくやっているつもり、背いてはない、そりゃ間違うことはあるかもしれんし完全ではないけどと考えるのは、しかし、神の義に従っているのではなくて、これぐらいはと自分の考える自分の義しさに、自分を弁解するほど熱心に仕え従っているのではないか。でも皆そうじゃないかと思うのを、きっと先の詩編は「誰も彼も背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う人はいない。ひとりもいない。」と、義しく嘆くのです。

この、自分はちゃんとやった!というつもり問題を、以前ある牧師とこういう譬えで話したことがあります。食器を洗ってと言われて、皿にこびりついた汚れの上を、見事な泡のついたスポンジでスムースに行き来して、流水で流して、カチャカチャと水切りカゴに立てて、チーズとかの汚れが落ちてなかったら。汚れを落とすのが洗うゴールだから、それは洗ったつもりで洗ってないと言った。すると、それいつも妻から言われるやつです(笑)と肩をすぼめていました。

パウロまたイエス様の時代のユダヤ人たちの間で、一般に考えられていた救いのイメージは、神様が世を裁かれる終わりの日、裁きの日に、律法を正しく守っている人は裁きから救われるけど、正しく守ってない人は、裁きから救われないで滅びを受けるというイメージです。

そのイメージは、丸ごと間違っているわけではない。聖書が証しする通り、人は世の終わりであろうと、その前に死のうと、死後、神様の前に立ち、各自、自分の行いに応じて裁かれる自分が犯した罪の裁きから救われないかんからです。パウロが自分のこととして祈っているのは、この裁きから家族が救われることです。パウロ自身、裁きから救われるために、熱心に律法を守っていた、つもりだった。自分は救いに達する義を勝ち得ていると思っていた。パウロが救われる前に考えていた救いのイメージを受験のイメージで譬えるなら、こうなるでしょうか。

これは別の牧師から聴いた証しですが、高校受験の時、自分は大丈夫だと思って、滑り止めをしなかった。級友たちもほぼその高校を受けるし、自分がどのぐらいの位置にいるかはわかっていたので、まあ大丈夫だろうと。試験が終わり、貼り出された合格発表のズラーッと受験番号が並んでいる番号の中に、自分の番号がなかった。何度もその前後を見直し、見直し、そんなはずはないと全部の番号を見て…その時の気持ちを皆さん想像できるでしょうか。人生が終わったと思ったそうです。

でもこれが、私たち自身もおそらく考えていたし、ひょっとどこかでまだ思っている、でも大丈夫だろうという裁きと救いのイメージに対し御言葉が明らかにする、一番おそろしい思い違いではないか。受かる、救われるつもり。だからパウロは、自分もとんでもない思い違いをしていたから、それがどれほど手強く、それでも自分は間違ってないと思い自分の義しさの弁護に向かうかを、自分のこととして知っているから、助けて下さい!と、唯お一人助けとなるキリストの名によって、祈りに駆り立てられる他はないのです。

何故なら、もしキリストが割り込むようにして私の頑なな人生に介入して下さらなかったら、決して自分からは救われてない私を、神様は、キリストによって救って下さった!と、確信して証しできるからです。自分の罪の汚れさえ、自分の義しさで洗ったつもりだったのです。でも何かやったから罪が洗われるのか。それは罪による犠牲者の正義を全く無視した、まさに自分だけの義ではないのか。そんな義が、罪の犠牲者が要求する正義に値すると誰が信じるのか。全ての人をお造りになられた神様は、被害者も正義をも泣き寝入りさせて、善を行ったからという理由で罪をなかったことにする、不義で卑怯な悪の神では決してない。義なる神様は、罪を裁かずに人が救われることなど決してなさらない。

なら一体、誰が救われるのか。誰も彼も背き去って、洗ったつもりで何の汚れも落ちてない全ての人間を、全く妥協せず完全に裁いて、罪に対する正義を満たすため、神様ご自身が身代わりとなられたのはそのためです。神様が完全に裁かれ棄てられ汚されて、全て終わったと十字架で叫んで下さった。それは、あなたの人生が罪で終わることの決してないためだ!と、神様が救って下さるのでなかったら、罪人は、誰も裁きから救われない。でも神様が来て下さったから、キリストが来て下さったから。罪で真っ暗な世界に光として、人となられてお生まれ下さり、罪人を裁きから救う、神の義のゴールとなって下さったから。人は罪を洗えなどしない行いによるのでなく、十字架の義なるキリストを信じて裁きから救われる。それを証しできるのは、パウロだけではない。この完全な裁きによって救われ、完全な救いをくださったキリストを信じて、主よ、私の愛する者たちをお救い下さいと祈りを励まされ、キリストを信じて祈るのは、決して罪なき人たちではない。赦された人、キリストを私の主と知る人、そのキリストの願いを知る私たちが祈るのです。