ローマの信徒への手紙10章1-4節、詩編119篇169-176節「キリストがゴールから」

21/11/14幼児祝福礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙10章1-4節、詩編119篇169-176節

「キリストがゴールから」

【こどもせっきょう】

教会のパウロ先生が、皆にお手紙を書きました。「救い主キリストが、いのちのゴールです。」ん?どういうこと?例えばこういうことです。

ぼくは今マラソンを走っている。スッスッハッハ…よし良い感じや。ほら一人抜いた。もう一人抜いた。このままドンドン、他の人に勝って勝ちまくったら…、おっといけない。落ち着け、ぼく。調子に乗ったら道を間違えてゴールに着けなくなるから。考えて、周りを見て、自分を信じて、かしこく、正しく、頑張って、よし!また一人抜いた!

そうやって、ぼくが頑張っていると、おや、後ろからぼくの仲間たちが何か、ぼくに向かって言ってます。お~い、そうやって走ってると~迷子になるって~園長先生が言ってたよ~。

園長先生?あ~そういや、このマラソンのスタートの時、何か言ってたっけ…ポヤポヤ~(園長先生)皆さん、このマラソンは、皆で仲良く走るマラソンです。速い人もゆっくりの人も助け合って愛し合って神様が喜ぶいのちを走って下さい。園長先生がゴールですからね。でももしわたしから遠くなって迷子になったら、園長先生って呼ぶんですよ…

ポヤポヤ~(ぼくに戻る)…って言ってたっけ?何やったっけ?いやでも、とにかく頑張らないと負けるから、勝たないと勝たないと…って走っていたぼくは、園長先生からも仲間たちからも遠くなって、ついにどこを走っているのか分からなくなって、寂しくて、涙が出て、あ!って転んで、ひざから血が出て、もう走れないって思った時、園長先生~って呼びました。そしたら園長先生が、ぼく!園長先生が一緒に走るき大丈夫でって、ぼくをおぶってくれて、ぼくはおぶってもらって一緒に走ったんです。園長先生はすごく嬉しそうでした。ぼくも嬉しくなってきて、どうしてぼくの場所がわかったが?って聴くと、わたしはいつもぼくを見ゆうき。ぼくの仲間たちも、ぼくがあっちに行ったき、助けて助けてって、ずっと言ってたからって教えてくれました。ぼくはもっと嬉しくなって、ぼくもう走れるでって言ったら、園長先生は?って聴くので、ぼく、園長先生から離れないで走る。園長先生と一緒に、仲間と走ると答えたら、園長先生がギュッとしてくれて、ゴールおめでとうって言ってくれました。ぼくも、神様ありがとうってギュッとしました。

【説教】

「キリストは律法の目標であります」という4節の御言葉を、こどもせっきょうでは「救い主キリストがいのちのゴールです」と言い換えました。ゴールが目標だというのはおわかりだと思います。人はゴールを目指す時、よし!と、やる気が出ます。逆に生きる気力が出ん時、漠然と生きている時には、自分は何のために生きているのか、わからんなっているのじゃないかと思うのです。目の前にやらないかんことがあると仕方なくでも、まだ力が出ますが、何のため?と目的が見えん、ゴールが見えんマラソンは、走るのがつらい。だから目先の刺激や見映えする夢に、わかっていても飛びついてしまうのは、いのちのゴールが見えてない時ではないでしょうか。

律法とは、本来そのいのちのゴールを指し示す神様からのいのちの掟だと言えばわかりよいでしょうか。神様から離れてしまって、いのちの目的も自分の意味もわからんなって、特に、その名を愛と呼ばれる神様「神は愛です」と呼ばれる神様の愛がわからんなって、愛の反対の罪に生きてしまう私たち人間に、神様を指し示す律法。例えば「隣人を自分のように愛しなさい」(レビ記19:18)と言われる愛の義しさが、3節で「神の義」と呼ばれる神様の義しさを指し示しています。

その律法を与えられ、世界に救い主の祝福をもたらすために選ばれたイスラエルが、なのに、目的を履き違え、律法を誤解し、神様も、その愛の義しさも自分中心に誤解して、しかも熱心に、自分たちこそは愛を知り、神を愛し、掟に生きる神の民なりと、ゴールを見失った。いや、自分は律法を愛して、これこれをやって、正しいルールに従って正しく生きているから救われるんだ、それがゴールだから、もし救われたかったら、ぼくみたいに正しくやれというゴールに走っていた。

でもこれは、イスラエルだけの話では決してないでしょう。教会も、いや、どのキリスト者も、私だけは違うと熱心に、自分は正しい認識に基づいていると言える人がいるのでしょうか。つまり「自分の義」を、自分は正しいと熱心に信じてしまってない人が、教会の中だろうと外だろうと、自分はそれでも正しいと思ってない人がおるのか。正しい知識として、そうだ皆罪人だと思うだけではないのです。例えば何かで責められた時に分かる認識です。些細なことで責められ、些細と思う時点で何ですが(笑)、私だったら、皆でご飯食べる時はもうちょっとニコニコしてと愛のなさを言われて、自分の中でも言い訳をしない人、むしろ、神様ごめんなさい、私の罪を赦して下さい、イエス様、あなたが代わりに死んでくださって本当にありがとうございますと、まったく神様に、キリストに私と私の救いは依存していると知る時、人は「正しい認識」に目が覚めるのです。そして神様にも人にも、ごめんなさいと、口では泣きそうになるから言えんでも、心から思って、自分は!と言い訳らあせんで済むようになる。だって心から知るからです。いえ、認めるからです。私が間違っていた。私じゃなくて(笑)。私は本当に死ぬほど義しくなかった。もしかしたら私のせいで本当に誰かが人生を失っているのではないかと、自分は罪人だと認めつつ、でもそのことで信じるようになるのです。こんな自分の義しさに固執する私を、なのに愛されて、本当に死ぬほど愛されて、私の罪ゆえの裁きと滅びから私を救うために十字架で身代わりに死んで下さった神様が義しい、キリストが義しいと認め信じるようになる。そこに神様の義しさを指し示す律法の、ゴールがあるのです。

キリストが、その義しさのゴールですから、キリストから目を離した途端に、自分の義しさに舞い戻るような、何でわからんと叱られるような現実でもあるでしょう。でも別の言い方をすると、キリストを信じるとは、キリストとゴールインする、もはや二人は一人であって、むしろキリストが決してあなたを離さないと愛し抜いて下さる、その愛を信頼してよいのがキリストを信じる救いなのです。そしてその愛が、何度も自分の義に固執してしまう私たちを、まさに義しい愛で、幸生、いかんと罪を示し、叱りはしても、決して責めはしない。自己責任にして責任を追及して、もう知るかと見捨てられることは決してない。それが神様だと、それが愛であり義であると、私たちはキリストの十字架のもとで何度も知らされ、神様との愛の関係に育てられてもいくのです。

ゴールとは、終わるということでもありますが、でもこの愛の関係は終わらんのです。キリストの救いの義しさの故に終わらんのです。神様がキリストをゴールとされて終わらせたのは、私たちの罪を責められるのを終わらせられたのです。十字架で、キリストの死によって、だからもう責めない!と終わらせたのです。だから死ぬなと招いて下さった。死んでも死ぬな、わたしを信じよと、永遠の祝福に招いて下さった。

そのキリストの祝福を受けながら、人を責め続けることもできんなります。何でわからんと怒っても、私こそ何でわからんろうと、キリストの赦しにギュッとされたら、責めるより、祈りたくなる。神様の愛に、この人と、この子と、一緒にお従いしたいです、助けて下さいと。主はそこにおられます。十字架の祝福の主が共におられるのです。