ローマの信徒への手紙9章30-33節、イザヤ書8章11-15節「自分がの石につまずく」

21/11/7朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙9章30-33節、イザヤ書8章11-15節

「自分がの石につまずく」

何かに夢中になっていると、自分の足元が見えなくなって、つまずくことがある。歩道の縁石に、何でこんな所にと責任をなすりつけて腹が立つこともあるかもしれません。が、もし!その先が絶体絶命の崖で、たとえつまずいてでも、決してそこから落ちることのないように、人が自分の何かに夢中のまま落ちることのないように置かれた縁石だったと知ったら、感謝に変わるのではないでしょうか。

では、どこで変わるのか。自分が夢中になっている何かから、ハッと目が覚めて、自分が本当にはどんな場所におったかを知る時でしょう。それをこの9章は説いて来ました。イスラエルが救われるために十字架のイエス様の思いで祈るよりも、彼らが救われないのは神様の責任じゃないのかと、責任逃れに夢中になる態度。それは先月の礼拝の招きの言で「主イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます」(使徒16:31)との御言葉を信じて祈っているけど、いつ救われるのか。自分は求めているのに、神様が何か責任を果たしてないのではないか。あるいは、自動的に早く救ってくれたらいいのにと、私たちの側の責任を見えなくさせる問題とも重なるでしょう。その悪い夢、つい人間が夢中になる態度から目が覚めるようにと、御言葉は続くのです。彼らが未だ救われてないのは神様の責任ではないし、そういう責任逃れからも救い出されるのがキリストの十字架の憐れみではないかと説いてきて、30節「では、どういうことになるのか」。彼らがどうして救われてないかの責任の中身が、ここで明らかになるのです。

どうして救いを得てないのか。キリストの憐れみに自分を委ねる信頼によってではなく、つまりキリストによってではなく、自分の行いから出て自分を義とする救いを求めるからです。自分にはこれこれの正しいことがある。だから救われると求める求め、あるいは態度が、キリストにぶつかってつまずく。十字架の赦しにつまずいてしまう。

自分にはこれこれの正しいことがある、それは神も、だからあなたは救われると認める義、義しさだと、人が夢中になって信じている行い、行ったこと、行っていること、求めている義しさがある。それが31節の「義の律法」です。もっとハッキリ言えば、キリスト以外の義。全くの憐れみによって与えられたキリストから私はこの恵みを受けたのです、これも受けたのです、ただキリストの憐れみですとのキリストへの信頼を、欠いて、抜きにして、自分を義しくさせる一切。

例えば、自分の救いを、私はキリスト者だから救われる、と考えて、ただキリストの憐れみですとのキリストへの信頼を、依存を欠くなら、イスラエルが律法に達しなかったように、キリスト者に達してないのです。キリスト者じゃないとは言いません。譬えるなら私が妻の夫であるのは事実ですけど、夫に到達しているか。父親に到達しているか。牧師に到達しているか。してないじゃないか。なのに、何ゆえにキリスト者と呼ばれるか。キリストの故でしょう。それがキリスト者を唯一義しくする、そして救う義しさ、救いの義、キリスト信仰の義だからです。

信仰そのものも、もし、キリストへの依存を欠いて、自分には信仰があると思うなら、それも義の律法です。律法とは何か信仰とは何かが、自分と自分の義しさに夢中になるとわからんなって、信仰も自分で得ているモノ、自分が行っていることになる。そしたらあの人は何で持ってないのか、やらないのか、信じないのかと、先に申しました9章3節でパウロがキリストの思いで、私が代わりに棄てられてもよいと救いを祈るよりも、裁く信仰になる。それは信仰に達してないのです。信仰は、キリストに頼り依存して、主よ、信仰のない私を助けて下さい(マルコ9:24)と、空っぽで非力な両手をキリストに伸ばすのです。その両手をキリストが捕らえてくださって、人はキリストを得るのです。

以前ある教会で伝道説教をした時、ビルの下から炎が迫る屋上から、消防隊が用意した恵みの救いのマットを、これがあなたを救うとの声を信じて飛ぶのが信仰ですと説教した。後で牧師が求道の方々を見ながら私に、そのビルはそんな高くないんですよね、二階から飛ぶぐらいですよねと言う。そうですねと微笑みながら、救いを低くするように思いましたが、その私の信仰も全く低すぎて達してない。実際の裁きはマットも見えず、あると言われて信じるだけで、つまずくぐらい高いのです。見えない場所に正しく飛べるのか。信じられず足が震えて、横の子供は泣いていて、横のおじさんも言い訳ばかりしていて、そこにキリストが来られて、おんぶするき、信じて、あなたは助かると言って子供を連れて飛んだ。またキリストが血だらけで来られて、おんぶするきと、信仰のない私を助けて下さいとおぶられたおじさんを背負って飛んだ。また来られて、あなたも来なさいとおぶってくださる。そのキリストにおぶられるのが信仰です。つまずくほどの神様の裁きと人間の罪を、だから背負われたキリストの義しさを、信じる救いの喜びを証しするのです。