ローマの信徒への手紙9章25-29節、ホセア書2章18-25節「憐れみは独占できない」

21/10/31宗教改革記念日朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙9章25-29節、ホセア書2章18-25節

「憐れみは独占できない」

「愛されなかった者を、愛された者と呼ぶ」。ホセア書では「憐れまれぬ者を憐れみ」。愛しまた憐れまれる神様の側からすると、同じことなのですが、それを受ける側からすると、憐れまれるのは嫌という気持ちになりやすいのが人間でしょう。憐れまれるのは、相手から可哀そうにと思われるのと同じだと考えて、下に見られたくないと思うのかもしれません。聖書が憐れみを語る時は、けれど上とか下という意識ではなく、人間全体の罪と滅びの現実の中で、そこから救われてほしいと、行動と決意を伴って神様が動かれる。それが憐れみであり、愛なのです。

ずっと以前にも紹介した例ですが、ある神学校の教授がクラスの生徒たちに定期試験の代わりに、レポートを提出しなさい、ただし期限日を過ぎたら0点ですと言った。期限日のクラスに、真っ青な顔をした生徒が数人いた。教授は深く憐れんで、今週中に出しなさいと言った。次の試験の時も同じようにレポート提出にしたら、期限日に以前の倍以上の生徒が不安そうな顔をしていた。今週中に出しなさいと言うと、教授の憐れみを褒めたたえる歓声でクラスがどよめいた。次の試験のレポート期限日には、不安そうな生徒はいなかった。では順に提出しなさいと言うと、他の授業のテストが大変で、今週中には出しますからと、余裕の顔で最初の生徒が言った。同じ顔で他にも、大丈夫ですよと口々に言うので、提出しなかった生徒の名を順に読み上げ、アダム0点と言うと、大ブーイングが起こり、卑怯なとさえ言われた。わかった。あなたがたが正義を求めるのなら、そうしよう。アダム、あなたへの前回の憐れみを正義に変更する。0点。エバ、あなたへの前回の憐れみを正義に変更する。0点。これがあなたがたの望むことか。生徒たちは言った。今、わかりました。ごめんなさい。

人間の罪の現実の中で、その罪が受ける正義の報いへの後悔と悲しみの現実に直面して、なのに、その当然の報いを受けないようにと救われる憐れみの現実に出会って、人は、憐れみが何かを知ります。なのに、その憐れみを、まるで自動的な延期であるかのように、それが当たり前であるかのように、ルールを書き換え、その改悪したルールを正義だと思い込み、それが破られたら怒りさえする。この問題を一体どうしたらよいのかと苦しむ態度。それが今朝の御言葉の説得が始まった19節の「なぜ神様は人間を責めるのか」卑怯じゃないかという怒り、憐れみを忘れた怒りの根源にある問題を、包み込んでいる態度です。

この問題は、神様を暴君のように思い込みながら、実はその自分に、自分が認めるルールが破られたら、怒り不機嫌になる暴君の態度があるから、それが神様だと思う。まるで自分の嫌な部分を人に見つけたら、すごい腹が立つような(笑)、責任逃れをする、どうしようもない問題。この問題に対して、つまり神様の憐れみを忘れ、自分の罪を棚に上げ、神様の愛がわからなくなって、暴君になってしまうアダムの子孫たちを一体どうしたらよいのかと神様が正義の愛の苦しみをなさった。それが今朝の御言葉の背景だと言えば、わかりよいでしょうか。

26節で神様がイスラエルに向かって「わたしの民ではない」と言われたその場所で、彼らは生ける神の子と呼ばれる、神様から、我が子よと呼ばれ抱きしめられると言っても良いと思います。譬えるなら、たぶん私も言われたことがあったと思いますが、お母さんの言うことを聴かん子はうちの子じゃありませんと言われた子どもが、もし、別にかまんと憎まれ口を叩いて外に出て行き、夕飯の時に、シレっと帰ってきたら、自分の席にご飯がない。お母さん、僕のご飯は?と言ったら、おばさんは、よその子からお母さんと呼ばれる覚えはないと、言われないか。

でも何のために、そう言うのか。何を求めて厳しくするのか。それがわからん人がおるのでしょうか。もし本当にわからんなら、お母さんは別の言い方をするでしょう。あるいは、わかるまで、どうしてそういう言い方をするのかを真剣な顔で、内面、泣きそうな思いで知らせる。どうしてもわかってもらわな、大変なことになるきと。もしかしたらそれでもヘラヘラして逃げようとしている、あるいは怒り散らして不機嫌になるその子の将来を背負いながら向き合う。そして神様は、本来生ける神の子であるアダムの子孫、私たち全体の将来を背負いながら、そのまま行くと永遠に取り返しのつかない将来を背負われながら、あなたはその自分を誰だと思うのか、信じなさい、わたしは主、あなたの神だと、十字架の憐れみのもとに世界を招かれる。規模で考えたら、お母さんの悩みとは、規模は桁違いに違います。でも小さくても苦しむお母さんの悩みに向き合うなら、神様のお気持もきっとわかるのです。

この厳しさと憐れみの根源にある神様の思い、いや、厳しさと憐れみが一つとなった十字架の神様を信頼して生きてほしいとの説得は、更に「残りの者」というキーワードで続きます。真ん中の「の」を取ったら残り物で、むしろ捨てられる危険がありますが、でもそれが、ソドムとゴモラの話と共に明らかにされる、救われた者の実際なのです。全くの憐れみによって救われるのが神様の救いだから、その神様を知ったら、まだ神様を知らない世界のために、あなたも祈ってほしい、残りの者、憐れみを知っている神の民よ、と呼びかけるのが、この展開です。

先のレポートの話を思いながら29節を聴くとわかりよいでしょうか。ただ、これも上の22節と同じく「もし!」による説得ですので、「」の文頭に、もし!を加えて読み直します。「もし、万軍の主が私たちに子孫を残されなかったら、私たちはソドムのようになり、ゴモラのようにされたであろう」。もし!神様が憐れみなき正義の神なら。

聖書を読んだことない人も聴いたことはあるのではないかと思われるほどの、罪故に滅ぼされた二つの町の名前を出して言うのです。もし!神様が、あなたがたを残りの者として、生き残る者として憐れまれてなかったら、神の民も教会も、その罪の故、跡形もなく、いや世界全体が滅んでいたのではなかったか。ソドムとゴモラのように。

いや、そんな、たぶん知っているだろうという近いようで遠い話などしなくても、問題は私たちの滅びなのです。違うでしょうか。もし神様が御言葉の通り、全ての罪を見逃さず裁かれる聖なる聖なる聖なる万軍の主なら、何故この息が未だ続いているのか。もしかして神様が生きてないのではないか。それとも御言葉の通りには正義を行えん神なのか。力がないのか。勇気がないのか。正義を実行する権威がないのか。本当は神は生きても存在してもないのではないか。御言葉などと言うけど、それは単なる作り話なのではないか。もし!私たちがそうやってソドムとゴモラのように、主が地上において完全に速やかに御言葉を行われることは、実際はないのだと侮ったとしても、もしも!その罪を十字架で背負われて、侮られるまま、侮辱されるままに忍耐された神様が、その罪と、他の一切の罪に対する裁きを、私たちがまさかそのことで滅びることはないと侮る聖なる裁きを、一切の憐れみなき正義の裁きを、御子を棄てられることにおいて、完全に、速やかに行われたなら、その故に罪なき生ける神の子が、我が神、我が神、なぜ私を棄てられたのかと、他の誰の場所でもない私たちの場所で叫ばなければならなかったなら、それが十字架の正義と力と勇気を執行される権威によって、わたしはあなたを憐れむ、あなたは生き残ると決められた神様だったら、私たちは全くの憐れみと正義とに背負われて、キリストに抱かれた生ける神の子と呼ばれるようになる。

そして、どうするのか。この神様を、祈って、世界に伝えるのです。