ローマの信徒への手紙9章19-24節、イザヤ書64章5-11節「罪は棚に上げず、赦す」

21/10/24朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙9章19-24節、イザヤ書64章5-11節

「罪は棚に上げず、赦す」

「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。」一体何様のつもりかと言っていることを承知しながら、敢えてこう答えましょう。何者か。人間、アダムの子孫です。土から神の形に創られ、命をくださった神様から「取って食べたらいかんと命じた木から食べたのか」と、罪の責任を問われた時「あなたが私と共にいるようにした女が木から取って渡したので」、何で責めるんですか、神様がやったんじゃないか、わかってたでしょうと答えて、ごめんなさいと言えなかった人間です。

その人間が、どうしたら、ごめんなさいが神様の求められる答えだと知って、その名を愛と呼ばれる神様のお気持だと知って、全ての人の罪の責任を御子を犠牲にして引き受けられ、赦すと決められた神様の栄光の豊かさを知るようになるか。この神様を信じて、まだ信じてない人の救いを祈り、この神様の救いのために生きるようになるか。それがこの9章から11章まで一続きになった、神様の救いの説得です。

その説得の中で、一つの核となっているのが今朝の22節から24節:選びの神様の憐れみの豊かさを知らせ、だから信じよと招く説得です。

直訳は「しかし、もし!神様がその怒りを明らかにしようと且つ彼の力を知らせようと欲しておられながらも、滅びに向けて整っていた怒りの器を、多くの寛容の内に耐え忍ばれたとしたら、また彼のその栄光の豊かさを、栄光に向けて彼が予め準備しておられた憐れみの器の上に、彼が知らせられるためだったとしたら、そしてその者たち即ち私たちをユダヤ人からだけでなく異邦人からも彼が召されたとしたら!」。

22節の原文は「しかし、もし!」と始まります。直前での、あなたは何様のつもりかと、我に返らせる説得を「しかし、もし!」と、まるで自分からひっくり返すようにされるのです。どうして人間は何様なのかと重ねて明らかにされる義しくない人間への怒りを、まるで神様ご自身でひっくり返すような、もし!によって開かれる世界、全くの憐れみによって救われる神様を信頼する栄光に向け、もし!と扉が開かれる。

重要なキーワードは「明らかにして」「知らせる」ことです。22節で「神様はその怒りを明らかにし、その力を知らせようと」。23節「栄光の豊かさを知らせるため」。17節でも主がファラオを立てられたのは主の「力を明らかにされ」主が天地創造の神様であられることを全世界に「告げ知らせるため」だったと強調されました。神様がご自分のことを知らせ、また告げ知らせられる時には、必ず目指すゴール、目的があります。私たちだってそうでしょう。自分に罪を犯す相手に、私は怒っていると明らかにして、知るか!と返ってきたら、赦しでも和解でもない本来のゴールではない行く先へと関係が向かって行かんでしょうか。

なのに、人間がアダムと共に、自分の罪の実際を棚に隠して、神様がそうさせたと、え?その態度で自分がどこに向かうか見えんが?と本当は何も隠れてない真実を棚に隠して、神様のせいにしようとするなら、この陶器師と器の譬えになるのです。この譬えは、陶器師が何を選ぼうと器は黙っちょけという意味ではありません。むしろ自分が罪を犯すのは神様が自分をこう造ったからだと、罪の責任を神様のせいにするから、人間は神様がわからんなる。いや信じられなくなって、神様は人を無視して身勝手に選んだり造ったりする暴君じゃないかと神様の愛の権威もわからんなって、神様のご計画より自分を信じる。そして、ごめんなさいと我に返り憐れみ深い天の父に帰る我を見失って、神様が、いかん、そっちに行くなと明らかにされる滅びに向かっているじゃないか。そう説得するために22節以下へと続くのが、この譬えです。

もし、そこで神様から、あなたは何様のつもりかと怒られて、ごめんなさいと我に返るなら。自分は神様から怒りを明らかにされている滅びに向けて罪を犯す人間だ、神様から私がどのように造られていようと、それで私が罪を犯すわけでなく、私が罪を犯すのは、神様を選ばず罪を選んだからだ「私は何と惨めな人間なのか」(7:24)、私は滅びに向けて罪の整った怒りの器だと我に返り、ごめんなさいと天の父に帰るなら、それは全くの神様の憐れみによる!それが「栄光」の知り方です。

しかし、もし!何で神様は私の罪を問うのかと、我に返らないままで怒りの器としての我が明らかにされるなら、そこでこそ、私たちは知らなければならない。「しかし、もし!神様がその怒りを明らかにしよう、そして彼の力を知らせようと欲しておられながらも、滅びに向けて整っていた怒りの器を、多くの寛容の内に耐え忍ばれ(あるいは背負われ)たとしたら、また(それは)神様のその栄光の豊かさを、栄光に向けて神様が予め準備しておられた憐れみの器の上に、神様が知らせられるためだったとしたら」。ならば、その怒りの器が、自分はどうせ怒りの器だから滅びるしかないのだろうと考えることが、どんなに間違っているか。神様は暴君だから、だから信じないのだと、信じない自分が、「愛は忍耐強い」(コリント一13:4)と宣言される神様から、どんなに愛されているかを、どんなに間違って信じられない!と信じてなかったか。しかし、もし!それが神様だとしたら、もし、その神様を信じて生きてないことが自分のすべての間違いであり不信仰であり不義であり罪だとしたら、そしてそのことをこそ神様が、私に向けて明らかにしておられ知らせておられて、ならばあなたは怒りを負われた憐れみの器ではないのかと、それがキリストの十字架を信じる救いであることを、もし私たちがこの神様を信じて知るとしたら、そこで私たちは神様の力と権威とを、我に返って知るのです。私は、愛される者として生まれてきたと。

24節以下、その憐れみの器として神様が召し出し招かれた者たちを、「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」と、神様の側から確かにされます。愛されることも、罪への怒りも、自動的ではない、律法主義的ではないことは、次週改めて説き明かします。今日は「しかし、もし!」の使い方を、改めて説き明かして終わりにします。

もし~だったら、どうする?という説得を誰かにする時、もしの後に続くのは、仮の話、言わば嘘の話でしょうか。例えば、もし、お父さんが死んだらどうする?もし、もしで、と言いながら、実際は、それは仮の話ではなくて、いやいや、お父さんは明日も明後日も元気で、朝起きたらおって、だって昨日もそうやったし一昨日もそうやったし、今までそうやったし、入院した時もすぐ帰ってきたしと思うことこそ、実際は保証がないのです。自分がそういう昨日までを過ごしてきたという自分がそうやったという、自分を根拠に、そんな、もし、とか言いなや、と人間は思う。でも実際は、だから今日も死なんろうと思うことこそが、自分を根拠にした、仮の話であることを、しかし、もし!という説得は明らかにする。人間が、だってと造り出す虚しい虚構に対して、でも、もし、死んだら、どんなに、そんなが信じんと、頑なに信じないと頑張ったとしても、もし、その頑なな人間の、どうしようもなく自分を信じて神様を信じない罪の仮話を、それはあなたを滅ぼすと神様が明らかにされて、しかも十字架で明らかにされた上で、本当に罪は人間を滅ぼし全てを破滅させてしまうと、永遠の神の子を死なせられた神様が、もし本当に私たちの全てを背負われて「わたしは自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ」あなたを愛する神である、あなたには、このわたしをおいて他に神があってはならないと知らされるなら、信じて良いのです。明日の命さえ保証しない自分の仮を捨てて、永遠を知らせる十字架の憐れみを信じて祈って良いのです。