ローマの信徒への手紙9章14-18節、出エジプト記33章18-23節「憐れみが人を選ぶ理由」

21/10/17朝礼拝説教@高知東教会

ローマの信徒への手紙9章14-18節、出エジプト記33章18-23節

「憐れみが人を選ぶ理由」

神の側に不義がないか。神様はルール違反をしているのではないか、と言えばわかりよいでしょうか。人が他の人のすることを、ルール違反だと裁くように、神様を、人を裁くように裁いてしまう問題。

例えば前に使った譬えですが、私は歯磨きチューブを端から、それはもう綺麗に絞って使います。それがのルールです。が妻は別のルールがあるようで(笑)、それをルール違反だ不平等だと不機嫌な顔をする私に、もし妻が、私には計画があるの、自分のルールを絶対と信じないで私を信じて、愛する忍耐も身につけて柔和で幸せになろう、そのためにあなたのものになった私と計画を、信じて歯を磨いて(笑)と、まるで十字架で死んで下さったイエス様がおっしゃるように、言ったら、どうでしょう。自分と、相手と、どちらを信じるか。自分を信じる時、相手を裁き、反対に、相手を信頼して生きようと自分よりも相手を選ぶ時、愛が息をし始めるのでしょう。

ただ何故かそれを忘れて、捨てた自分を拾って愛を捨てるような愛のルール違反を繰り返す内に、人間は妥協というルールを作る。歯磨きの件は合理的に俺が正しいけど(笑)うまくやっていくために考えんことにしようと。確かに、どうでもえいことは、それも知恵だと思います。たぶんほとんどはどうでもえいことなのです。自分にこだわるだけで。でも、これを妥協したら関係自体がおかしくなるということは、ある。今朝の御言葉が教える神様の憐れみの主権がそれです。

主権。つまり特に救いについては神様がお決めになられる。あなたはこの神様を神様として信頼し、愛し礼拝しなさいという主権について、もし不満で、でも、それは考えないというやり方で神様とうまくやろうとしても、うまくいかんのです。つまずくのです。ご自身を告げ知らせられる神様へのつまずきが、残るのです。相手が人なら、本当の気持ちを言わんまま、お互いうまくやろうとするのは、きっと皆わかる。でも神様は!どうしてもご自身を告げ知らせられる。知ってほしいのです。でないと愛が息をし始めない。相手を知らんと。何を喜ばれ何を嫌われるか、モーセと律法により、また主を知ることを拒むファラオによっても、神様は、わたしがあなたの神だと、全世界が、知って救われるための選びとご計画を果たされる。それが神様の憐れみの主権です。

その神様の知り方は、例えばペトロがイエス様の御言葉の通りに網を投げて、絶対に起こりえない大漁を得て「主よ、私から離れて下さい、私は罪深い者です」(ルカ5:8)と知った。そういう知り方です。神様の前で、私は裁く者でなく裁かれる者なのに、何と愚かだったかと自分をも知って、なのにその神様から、わたしを信じなさいと招かれている、神様の深い憐れみを知る知り方で、神様を知らされる。それはつまり、私たちが自分からは知りたくない知り方で、知るのです。自分こそ不義を行い、神様との愛のルールを破る卑怯な人間じゃないかと、砕かれて知って、神様の憐れみの義しさを知って、ごめんなさいと知る神様が、だから人間は、どうしてもわからない。ペトロも勝手に救い主はこうでしょうと決めつけて、サタン、引き下がれと叱られるぐらいに、態度が自分自分の時は、どうしても神様がわからん。人が大人になって、誰かから怒られても、わからんように。同じことを繰り返すように。御言葉でご自身の怒りを告げ知らせられる神様の怒りも義しさもわからんで、いつになっても自分が正しいという態度のままで、そんな人間が16節で言われるような自分の意志や努力で、わかって信じて救われるのか。決してそうではない。そんな私のために、神様が、死ぬなと、代わりにわたしが死ぬから、幸生、死ぬなと死んで下さった。その愛に、ごめんなさいと神様を知って信じて、礼拝できるのは、こんな私を神様が御子によって憐れんで下さったからであって、この思いもイエス様を信じることも、この神様の憐れみから来たのだ、神様だ!と神様を知るように、神様が罪人の救いを決めて下さった。それが憐れみの主権です。

その憐れみの主権の中で、神様はモーセを立て、またファラオを立てられて、その大いなる憐れみの救いのご計画を、世界の全てを包み込まれて、進めて行かれます。先週も申しましたが、その救いのご計画の、ここが崩れたら全部が失敗という土台、あるいはピラミッドを逆さにした神様の救いのご計画の頂点である土台は、永遠の御子の十字架の死による罪人の償いです。その頂点である土台によって、全世界が担われ、その救いが全世界に告げ知らされることを決められたのは、この神様の憐れみの主権です。わたしは憐れむと神様が決められて、ヨハネ福音書で言えば、世の罪を取り除く神の小羊として、罪なき三位一体の御子が全世界を負われ、全ての歴史を負われ、全ての罪を負われて、十字架でその全ての罪に神様の正義が要求する、一切の憐れみなき怒りと裁きに御子が貫かれ犠牲とされた。この憐れみによって、ご計画通りに担われた全世界という逆ピラミッドを、人間が、それは不安定で嫌だ、自分で支えたいと、容易に引っくり返しては、自分たちの努力や意志によって世界も人生も救いも信仰も支えているように大転倒した態度でいても、神様のやり方はルールがおかしいと神様を裁いても、そのファラオと共に神様は全世界を担われます。そして何がごめんなさいなのか、神様がわからなくて言えない頑なな人間をも、十字架で全てが背負われているご計画の中で、まるで神様ご自身が、この計画が絶対になる!絶対にだと頑なになられるようにしてまでも、全世界の救いのためという目的に向かってファラオを頑なな主の僕として立てられ用いられるのです。

自分のことしか考えられない人間は、全体が見えなくて、その全体の一部分である今なすべきことも、自分も、人も、わからない。わかったつもりで偉そうにして、後で後悔する。その私たち全体を担われる神様の救いのご計画の中で、ファラオだけでなく、イエス様から「友よ」と呼ばれたユダが頑なにされ、また十字架の上の御子に、神の子なら自分を救え、そしたら信じてやろうと頑なに裁いた祭司長・律法学者たちのために神の御子が祈られたのです。父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているのか知らないのです。自分の罪の故に、自分がどんな部分を担っており、また担うよう罪の態度がそのままに今は頑なにされて、今は憐れまないと神様が決められた救いのご計画の今どこにいるのか。今がどんな時かも、自分が何をしているのかも、その責任が一体誰から問われていて、どれほど問われていて、そしてその全責任を、なのに、なぜ罪なき神の御子が代わりに引き受けて死なれると決められたかも、神様を知らんと、どうしてもわからん。だから神様が「わたしがあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)と言われる神様が、御言葉によって知らせられ、また神様が立てられた僕たちによって、全世界に、わたしが主、あなたの神だと告げ知らせられて、神様の救いを与えられるのです。わからんでも、理解を超えたご計画に疑いをさえ抱いて、離れそうにさえなっても、離れるな、信じなさい、わたしがあなたの神だと、十字架で救うと決められた神様、キリストを信じて義とされる救いのご計画を、神様が果たされるからです

十字架に向かわれるイエス様が弟子たちに向かって「あなたがたは皆わたしにつまずく」(マルコ14:27)と言われたのは、何度も襟を正して聴く、私たちと神様との関係の姿でしょう。でも、そのつまずいた弟子たちが、救いは決して自分によるのではない、神様の憐れみによると、人がつまずく神様をそのままに皆に告げ知らせた。それは十字架の神様を知ったから。この憐れみだけが確かに救うと知ったからです。