ヨハネによる福音書14章6-14節、エレミヤ書33章2-3節「主イエスの名によって」

21/9/26朝礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書14章6-14節、エレミヤ書33章2-3節

「主イエスの名によって」

祈りの御言葉を5月から聴いてきました。今日でひとまずの区切りとしますが、おそらく私たちが祈る時も、最後にこう区切って祈ります。イエス様のお名前によって祈ります、アーメン。無論、終わりますという決まりの挨拶ではありません。なら、どんな思いを込めてそう祈っているか。そこが急所です。本当は最初に祈るべきかもしれません。もし自分の祈りが祈祷課題を読んでいるように思える時などは、自分の魂に何度も聴かせたらよいのです。私はこの求めを、イエス様の名によって求めているのですと。

13節14節で二回繰返され、強調されて主は言われます。「わたしの名によって」と。直訳は「何であれ、わたしの名によって求めることは、これをわたしが行おう。」「もし、何かをわたしの名によって、わたしに求めるなら、わたしが行おう。」

「わたしが行おう」という強烈なイエス様の約束です。文語訳では「我これを為すべし」。「かなえる」という言葉だと、妙に私はシンデレラの白髪のおばあさん魔女が、お城の舞踏会に行きたいという願いを、かなえてあげたり、ピノキオが人間になる願いをかなえてあげたりという、夢がかなう、dream come trueが、シレっと入り込んでくる気がするのです。要するに自己実現は、かなうよと。

ここはイエス様が「わたしが行おう」と約束される祈りを祈るため、うんと大切なので、丁寧に説き明かします。この約束に先立つ12節で「はっきり言っておく」と、イエス様が、ここが急所で!と強調されて「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と約束されます。そこで「行う」という言葉を3回繰返し、えいかえ、わたしが行う業を、あなたがたは行う、いやもっと大きな業を行うと、えらいことを約束される。無論、神の子が死なれて罪を償うという、神様が犠牲になられるという業は、御子イエス様しかできません。が、その赦しの力を人々に届け、人がその命を受け、真理を知り、父のもとに来る道へと、お連れする伝道の業、そうやって弟子たちがイエス様に導かれ、私たちもまた信じて洗礼を受けた救いの業は、イエス様を信じた弟子たち、私たちが行うのだと主は約束される。いやそれはイエス様ご自身によるガリラヤとエルサレム他の地域の伝道より更に大きな世界規模での伝道を、あなたがた教会は為す!あなたがたは地の果てにまで行くんだと、大きなヴィジョン、言わば私たちの思いや計画を遥かに超える、大いなる命の幻とプランと人生目標を、私たちに与えられるのです。自分の手の力でできる、救いとも永遠とも関係ない自分の小さな行いに留まってはならない、それはわたしを信じたあなたが行うわたしの行いではない、あなたはわたしが行う救いの業を行うのだと、主は言われます。

そこで私たちが行う一つ一つの行いを、改めて考えてほしいのです。私たちが口から出す言葉が、じゃあ自動的にイエス様の言葉になるか、私たちの行いが自動的にイエス様の行いになるのか。ある意味、そうであるとも言えます。例えば牧師を考えたら分かりよいでしょうか。牧師が愛のない言葉を語ると、だからキリストは信じられないと言われる。牧師だけではないでしょう。家族にもイエス様を信じて救われてほしいと願いながら、でも自分には愛がないからと心悩ます主の弟子たちは、少なくないと思うのです。最初から実はそうだったと言えるのが、このイエス様の約束のすぐ前、右頁上で、ペトロがイエス様を三回否定すると主が言われる。その直後14章で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と、そんな頼りない愛のない弟子たちに、心配するな、わたしがあなたがたを救うのだから、そのためにこそわたしは父のもとから来たのだから、わたしを信じろと慰めるのです。

私たちの行いは、確かにイエス様の救いの御業を担いますが、それを自分の力で担うのではない。到底、担えません。自分の力で担っているつもりの時がペトロのように一番危ないのですけど、それと同じぐらい危険なのが、自分はどんな力によっても担えないと、イエス様の約束を信じないこと。不信仰と傲慢はどちらも、自分は!というコインの裏表です。じゃあどっち向いてもいかんなら、どうしたら?と、クルクル、コインが回るように自分自分で堂々巡りする自分をこそ、だから神様がイエス様によって担って下さったと信じるのです。そんな罪深く神様のことも救いも御言葉の約束も後回しにしてしまう自分を、イエス様は、だから、その自分はわたしと共に死んだと信じなさい、死んだ自分も、自分の行いも、わたしと一緒に葬られたのだから、死んだ自分はだからもう捨てて、復活のわたしと結ばれて新しく神の子とされて生きている新しいあなたとして、この新しい道を歩みなさい。この道そのものが、あなたの行いを義しくするから。あなたの行いを、わたしの行いとしてわたしが行うから。わたしは最初から、あなたのすべてを担っているのだから。だから、わたしを信じ、わたしの名によって父に求めなさい。御国を来たらせたまえ。そうだ、その父の救いのご支配を、わたしが、あなたの行いによって行うと、主は言われるのです。

祈りさえも!イエス様の祈りとしてイエス様が行って下さる。自分は祈れないと思いやすい私たちの祈り、祈祷課題をほとんど読むだけですと思う祈りも、だからイエス様の名によって祈るのです。イエス様が、その私たちの祈りを、イエス様の祈りの業として行われるからです。誰かを担う祈りを、その人を既に十字架で担われたイエス様が、ご自身の切実な求めそのものとして担ってくださいます。だから祈りの最初からイエス様の名によって祈るのです。イエス様に背負われて、イエス様、あなたの求めを祈らせて下さい、あなたの御業として下さいと、御心と御業を求めてイエス様の名によって祈る。その意味では、御霊によって祈るとは、イエス様が祈って下さる祈りを、イエス様の名によって祈ることと、ほぼ同じだと言ってもよいのです。

祈れなくて、うめく時には、イエス様が十字架を前にして「父よ、あなたは何でもおできになります」(マルコ14:36)と、うめいて祈られたイエス様の名によって、イエス様、あなたは何でもおできになりますとイエス様の力を信じて、うめきながら祈ればよい。常に満たされて祈れるわけでは決してない。イエス様の名によって祈り続けながら、だからこそ苦しくて、うめくことだってあるでしょう。愛すること、担うことが祈りの中心となる時に、十字架の愛の御業を、イエス様が祈りの内に行っておられるのなら、そこには主の御業が行われているからです。

その中で家族の名を上げ、友の名を一人一人あげて、父よ、どうかお救いください。この人もお願いします。また、教会の兄弟姉妹の家族をお救い下さい、伝道できるよう、祈り執り成せるよう、助けて下さい。イエス様、あなたが行うとの約束を行って下さい。主よ、あなたの名によって求めているのですと祈る。自分の力、自分の信仰、自分の愛では祈れないから、できないから、だからイエス様の名によって、イエス様が私の祈りによって行ってください、あなたは何でもおできになりますと祈るのです。人々の永遠の救いのために祈るのです。祈りの最後に、イエス様の御名によって、と言わなくても、父は、わかっている、御子の名を呼んで、御子によって祈る、あなたの祈りは、御子の祈りだと、父の右におられるイエス様と一緒に聴いて下さいます。そして私たちに与えられた約束を改めて確かにして下さいます。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う。わたしがそれを行う」と。