テモテへの手紙一2章1-7節、イザヤ書46章3-4節「すべての人のため祈る」

21/9/19長寿祝福礼拝説教@高知東教会

テモテへの手紙一2章1-7節、イザヤ書46章3-4節

「すべての人のため祈る」

祈るとは何か、どのように祈りなさいと御言葉が教えているかを5月から聴いてきました。今月でひとまず区切ります。今朝は、祈りの中でも、おそらく一番祈っているであろう「執り成し」の祈りです。自分のためでなく、他の誰かのため、家族の救いのため、全ての人のために、天の父よ、どうかこの人をと、執り成す。どう執り成すのかを、改めて御言葉に聴きますが、今朝は長寿祝福の礼拝でもあります。敬老の日に近い主の日に80歳以上の方々を皆で祝福します。ただ執り成しの祈りも敬老も、ともすると形骸化して形だけになりやすいかもしれません。無論、形だけでもないと本当に日常に流され、気持ちがないわけじゃないのに敬老も執り成しもしないまま毎日が過ぎやすい。なので敢えて、この日、また一日のこの時と、立ち止まり、感謝し、執り成し、祝う。主の日に、敢えて立ち止まり、礼拝を聖別するのと同じです。

今朝の御言葉も、どうして執り成すのか、それは「平穏で落ち着いた生活を送るため」だと教えます。ただ、これもまた誤解をされやすい。すぐ前に「王たちや全ての高官たちのためにも」執り成し感謝しなさいと言われるため、そうか、そしたら特に迫害の時代、日本も戦時中そうでしたが、国から迫害されいで平穏に礼拝できるからと、つい自分たちのことだけを考える解釈をしやすい。それは執り成しの態度とは真逆の生活態度なのにです。無論、迫害や試みに遭おうとも信仰によって!という態度も、主から教わった態度とは真逆、言わば自分の強さに高ぶる態度でしょう。だからむしろ、迫害を含む「悪より救い出したまえ」と祈る中に、あるいは既に迫害している王や、今で言えば、パワハラで苦しめる、上の立場の人たちのための執り成しがある。その人々のためにも父は三位一体の御子を、唯一の仲介者、彼らの救いを執り成す唯一の救い主として与えられたからです。その御心をズバリ一言で言ったのが4節です「神は、全ての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」。

どうして私たちは執り成しの祈りを捧げるのか。ともすると形骸化しやすい、祈祷課題を棒読みするような執り成しになりかねない弱さから私たちを救い出すのは、この神様の御心です。なぜ執り成して祈るか。神様がその人が救われることを熱望されて、そのためなら御子を犠牲にして、その人の罪を全部弁償して償うから、だからあなたも、この人の救いのために執り成してほしいと、救いの御心を与えて下さったから。だから祈るのでしょう。敵を愛しなさいと口で言うだけでなく、十字架で本当に死なれた神様が、この人に、あなたと同じように救われてほしいと願われる。その十字架で私たちの罪と死を負われた、主の前に立つ時に、私たちは感謝さえしながら、その人のために執り成すことができるのです。もし、その人と私の関係だけで執り成さないかんかったら、形骸化し、気持ちも態度も伴わん祈りになりかねません。でも私の罪と死を背負われたイエス様の前に、敢えてイエス様と名を呼びかけて前に出るなら、イエス様、私のため、そしてこの人のために死んで下さってありがとうございますと感謝できる。1節でこう勧められる通りです。「そこで先ず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝を全ての人々のために捧げなさい」。この人にも、この人を執り成して死なれた主がおられる!と感謝して、その人のために執り成せるのです。私たちの平穏や何かのためでなく、その人の永遠のために、です。

言い換えれば、平穏と訳すより「静かで落ち着いた生活を送るため」の、執り成しと感謝は、生活の中で「先ず第一に」営む生活なのです。

想像してほしいのです。一日の中で敢えて立ち止まり、自分の生活の最優先として人々を執り成した次の第二第三以降で営む生活の態度を。自分優先や子供優先や他を優先する態度とは違うでしょう。先ず人々の救いを第一とした後に送る生活の態度も、イエス様中心、救いの御心を常に求める生活になっていきます。どんなに周りが騒がしくても、やれワクチン、やれオリンピック、これ優先、あれ優先、早く早く、これが人生だこれが現実だ頑張れ頑張れと、どんなにこの世の神と嘘の福音が人の命を押し流そうとしても、その世界をこそ救うために御子を犠牲にされた父です。その御国と義を先ず求めて、執り成し祈る者たちには、そこに神様の声を聴く静けさが与えられるのです。聴け、わたしは主、あなたの神だと、神様を畏れ敬う心、態度が与えられ、また養われて、生活の態度が変えられていく。2節2行目で「信心と品位」と訳された言葉は「神様を畏れ敬う敬虔な態度と重み」です。永遠は人格に重みを与えます。それほどの命を神様は全ての人にくださった。敬老は、その神様から与えられた命の重みを感謝して、その人を改めて敬い喜ぶ祝いです。その命が、神様の御声を聴くまことの静けさと平安に満ちるよう祈る。主がその命を、全ての人を十字架で負って下さった。この重みが執り成しを助けます。そして人々の救いのための生活を助けるのです。