使徒言行録16章6-10節、イザヤ書55章8-11節「人の思いを超える御心」

21/9/5主日朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録16章6-10節、イザヤ書55章8-11節

「人の思いを超える御心」

主が命じられた御心に歩む旅の途中で、何で?ということが起こる。福音をすべての人に伝えるための道中で、でもアジア州ではいかんと。え?大都市エフェソに行って伝道を…いかんと。ん~今はいかんということか?じゃあ北上して…それも許されなかった。この後の言葉遣いが10節から急に「わたしたちは」に変わることから、このトロアスの港町で使徒言行録を書いたルカに出会ったのだろうと言われます。彼は医者でしたので北上が許されんかったのは誰かが病気になったのかもという推測もあります。思わぬ病気で計画が挫折する苦しみを彼らも味わっておったのかもしれません。でもその挫折の中に、人の計画を超えた御心の光が差し込んできた時、状況は一気に変わるのです。

先週の説教で、このマケドニア人の幻を、夢と言い間違えましたが、使徒言行録のここまでの流れでも幻。ペトロたちが祈っていた時に、幻が示されて御心が展開する。なので9節「その夜」も、祈っておったのだと思います。挫折の中で祈る。御心が、そこで示されて見つかる。

この幻で、ある人が「マケドニアに来て、私たちを助けて下さい」とパウロに懇願した。「助けて下さい」と訳された言葉は、元は軍隊用語で大至急の救援を!という言葉です。でないと滅んでしまう、という切羽詰まった言葉です。だから10節で「すぐに」出発することにした。

でも御言葉は単にその幻だけに飛びついて出発したとは言いません。ここが急所です。先ず、何をしたか。出発する「ことにした」と訳された言葉の直訳は「出発することを探し求めた」。「探しなさい、そうすれば見つかる」(ルカ11:9)「父のご支配を探し求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(ルカ12:31)。父よ、この幻はあなたからの御心ですかと、祈って探し求めたに違いないのです。祈って、御心を探し求めなさい。そうすれば見つかる。何となく祈るのじゃく。大切なお金をなくいて探すように祈り探す。もし、先月から大事に用意していた月定献金の袋を取り出そうとして、もし、なかったら、カバンひっくり返いて探すと思います。あるはずだからです。とりあえず間に合わせで、とは思えんのじゃないでしょうか。父が一人一人に用意しておられる御心も人生も決して間に合わせでかまん御心と人生じゃない。だから具体的な人生の御心を祈り探す。それは見つかるからです。

そして、もし、その大切な人生と御心を失ってしまっていたと思う方がおられるなら、そのための計り知れない犠牲として神様が払って下さった愛のゆえに!キリストの命の故に、私たちは、自分が失った人生をキリストと一緒に取り戻すことができる。探しなさい。そうすれば、命はキリストの内に見つかるからです。神様ご自身が私たちの命となられて、私たちに神の子として救われた命を取り戻すために来て下さった!その愛を信頼して、父よ、私にも、御心をなしたまえと祈る者たちに、父は憐れみと恵みに富んだ御心を示して下さいます。

すぐに、見つからないかもしれないのは、御言葉が教える通りです。自分の考えや計画が、どうして、どうしてと、止められることもある。でもついに、これだと「確信するに至った」時に、ガーっと動き出す。直訳は「総合して結論づけながら」。単に幻だけで確信したのでも、祈りだけで決断したのでもない。幻が示され、祈って、総合して結論づけながら、私たちは、ここに神様に召されているのだと落ち着くのです。

先週の御言葉コロサイ書1章でも「霊による理解」と訳された言葉は「霊的な総合判断」(9節)という言葉だったように、この御言葉でも、すぐに確信したというよりは、確信するに至った、やっとゴールした。結論として、ようやく確信に落ち着いたという意味合いです。もともとの意味は、一緒に舟に乗る。イエス様と弟子たちが小さな舟に、一緒に乗って、嵐に遭い、沈みそうになりながら、目的の岸に着いたように。

アジア州第一の都市エフェソでの伝道を、この時は禁じられたのも、じゃあと北上して伝道することも許可がおりず、ではどこに行けと言うがですかと、ほぼ戻るか進むかの二択で、進むしかないろうと行き先を知らぬまま進んでいったのも、そこでルカに出会ったのも、大至急助けに来て下さいと訴える幻を見たのも、全部を総合して祈った。無論それまでも祈り続けていたけれど改めて祈った。今まで、どうしてですか?と思ったことも挫折も一切合切を舟に乗せて、イエス様にお従いする舟に乗せて探した結果、結論が出た。結論は、きっと今までも話題に出ていた、祈ってもいた、でも今ではないと思っていた、いつか、その内と思っていた海の向こう、マケドニアに、今すぐ!海を渡って出発する。そこに神様が!私たちを召しておられるからと、結論が至った。神様が私たちに、さあ時が満ちた。わたしについて来なさい。これがあなたの探し求めていた御心だと召しておられる。それで出発できるのです。

この神様から召されています。皆が、御心に召されています。だから見つかります。探しましょう。イエス様があなたを呼んでおられます。