ルカによる福音書11章24-28節、イザヤ書34章14節「御言葉を守る幸いを祈る」

21/8/22主日朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11章24-28節、イザヤ書34章14節

「御言葉を守る幸いを祈る」

御国を来たらせたまえと祈ることを、ルカによる福音書がどのように説き明かしているかを続けて聴いています。

先週の御言葉でイエス様が口のきけない人から悪霊を追い出された。それを言わば実践的な教育の機会として、じゃあ私たちが本当に必要な支配のもとで生きていくためには、どんな支配、誰の支配が必要なのかと、御国の何たるかが説き明かされた。今朝の御言葉はその続きです。

今もまた、イエス様が聖霊様によって来て下さり、サタンの束縛から人が解放されることが起こって、良くなって、良かったねとなっても、です。その人の内で本来その人を治めるべき方の席、支配の座を空席のままにしていたら、あれ?国王の席が、空席のままじゃか。じゃあ俺がまた座ろう、いや、もっと他のも、俺よりもっと悪い霊たちも連れて来たら、もっと完全に支配できるろう、という譬えを主はなさった。

「我が家に戻ろう」と言うのです。あれは「私の家」だと。「私の」という言い方は、確かに支配を意味する。例えば私のお金と思う時には、私が自由にしてよい、支配しているお金だと思っている。私の時間も。それを悪霊が言うのです。私の支配する家に戻ろうと。

イエス様は問われるのです。あなたは誰のものか。誰の支配のもとに生きているのか。神様のご支配のもとに、生き損ねてはいないかと。

この譬えは、先週の御言葉、右頁下の最後の御言葉に続きます。23節「わたしに味方しない者は、直訳は:わたしと共にいない者は、わたしに敵対している」。考えてほしいのです。主と共にいる者。誰だろうと。この御言葉は、主の祈りの説き明かしの続きだと先に言いました。誰が主の祈りを、単に魔除けの呪文のように唱えるのではなく!祈るのか我らの父よと主と共に呼びかけるのか。主の弟子でしょう。イエス様を救い主と信じお従いする者。自らの心の王座に、イエス様を主と迎え、御言葉に従い洗礼を受ける者に、復活の主は約束なさいました。見よ、わたしはいつもあなたがたと共にいると(マタイ28:20)。

私たちは誰のものでしょうか。何故、主のご支配を祈り求めるのか。

個人主義が当然になっている現代日本ではおそらく、私は神様のものは嫌。サタンのものも嫌。と言うか何それ?私は私のもの!という考えが、支配的な考えではないかと思います。特に戦後。映画、文学、後にテレビで、自由な若者が自由に生きるのが戦後の自由な生き方だと流行し今に至るのですが、それまで日本人は天皇のものだったし、子供は親のもの、社員は会社のもの、あるいは今でも教会員は牧師のものというカルト支配に陥ってしまう傾向が、ないわけじゃない。でも何で、そういう支配に人は束縛されるのか。自分は自分のものという支配も含めての支配に何故からめとられてしまうのかを、御言葉はこう問うのです。神様のご支配のもとに身を置いてないからじゃないか。あなたを創られた創造主であられる神様を、あなたの心の王座、あなたを本当のあなたとして救い導き治めるべき命の玉座にお迎えしてないまま、別の何者かが、そこに座っているのではないか。人生を奪われているのではないかと問いかけるのです。主がサタンの支配を追い出された話、またそれに続く支配の譬えを通して、イエス様は、あなたはわたしと共にいるか、わたしはあなたのどこにいるのか、わたしはあなたにとって誰であり、あなたはわたしにとって誰であるのかと問われるのです。わたしは主、あなたの神、あなたはわたしの愛するものだろうと、十字架の愛の呼びかけによって、私たち一人一人に呼びかけられるのです。わたしは主、あなたを十字架の救いの言葉によって導き治める神であると。

だから、御国を来たらせたまえと祈るのは、単に状況が良くなりますようにと求めるのではない。我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえと祈るのは、サタンの支配や束縛から解放されて自由に楽になりますようにと求めるだけではない。解放された心と人生の玉座が空席のままなら、あるいは自分が王のような顔をして座っているなら、その人の後の状態は前よりも悪くなるのではないか。いや、本当の問題は、サタンや自分の支配などではなくて、やがて全てを裁かれる創り主であられて裁き主であられる救い主イエス・キリストの御前で、あなたはその日、誰として、十字架の主に向き合うことになるのか。ならば今、誰として、あなたの十字架の王に向き合い、祈るのか。こう祈りなさいと主は言われるのです。父よ、御国を来たらせたまえ、キリストの救いのご支配を与えて下さいと。わたしの名によって祈る祈りを、わたしは聴くから。あなたの後の状態、またあなたの愛する者の後の状態は、わたしが恵みによって支配するからと、十字架の主が招かれるのです。

そこで、では、私たちがイエス様のご支配を求めるとは、具体的には何を求めるのか。十字架の愛と恵みによってご支配くださるイエス様を心の玉座に迎え、洗礼を受けて具体的に主の弟子として歩む時、それは一体どんな幸いな歩みになるのかを、ルカは続けて説き明かすのです。

聖書に馴染みのある方は「あなたを宿した胎」と聴いて、何で急に母マリアの話になるが?と思われたかもしれません。イエス様が、神様のご支配の話を、力ある神様のご支配の到来について話されて、あなたはそのわたしと共に集める者かと問うておられる主に向かって、あなたのお母さんは幸せですね!と頓珍漢な脱線が起こる。その人を怒らんのがイエス様やなと、心からその憐れみを思います。そして神様のことが、どうしてもわからいで、どうしても人間が求め描く幸いに心がズレて、神様を求める幸い、神様を愛して共に歩めない弱さを、深く思います。そのご婦人に、イエス様がどんなに優しい笑顔を向けて、もしその方が5~60代やったら、お母さん、むしろ幸いながは神様の御言葉を聴いて、守る人ですよと、どれほど優しく語りかけられたろうかと思うのです。

神様のお気持がわからない。本当にそうだと思う。だからこそ、その神様が私たちをご支配しに来て下さいと、私たちを造り変え、他の支配から救い出して下さいと主に向き合って祈れと主は言われる。そして、ここが急所です。そのご支配に従うために与えられた御言葉を聴いて、守りなさいあなたの神様の御言葉を聴いて守りなさい。他の支配に、御言葉を奪われてはならない。守りなさい。あなたの宝を守るように。赤ちゃんを守るように。サタンに奪われてはならない。守りなさいと主は言われます。守るというのは、わからんきといって手放さないこと。今その価値がわからんでも、あなたを救い出すため、またあなたの愛する者たちを救い出すために神様が語られた御言葉は、単に役に立つ知識ではないから。御言葉の救いの真理は、人を偽りの支配から救い出す力を持っているから、奪われてはならない。エフェソ6章で「御霊の剣」と呼ばれる神の言葉は、聴く人を悪魔の策略と支配から解き放つことができる、生きて働かれる聖霊様の剣だから、主がおっしゃった種蒔きの譬えの通り、サタンは奪いに来ます。そんな主の言葉より、もっと人生を楽しませ、成功させる、この言葉このコンテンツこの情報このこの…その偽りの支配に、出ていけと命じられる主の御言葉を、だから守るのです。主が「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と言われた、深い自由の息を吸って、一切の偽りの支配から自由にされる幸いをこそ生きるため、御言葉を大切に守るのです。

だから御国を来たらせたまえと祈る時、具体的には、父よ、御言葉を守らせて下さいと祈る。御言葉が教える、あなたの御心、あなたの求めを、私たちが求め、愛して、お従いすることができますようにと祈るのです。そこにキリストの救いのご支配の、幸いが開始するからです。