ルカによる福音書11章14-23節、イザヤ書35章3-6節「既にと未だの間で祈る」

21/8/15主日朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書11章14-23節、イザヤ書35章3-6節

「既にと未だの間で祈る」

私たちに祈ることを教える御言葉から、ずっと聴いています。先週の上段の御言葉は、その前の頁の、主の祈りの説き明かしだと申しました。続く今朝の御言葉は、言わば更に実践的な説き明かしだとも言えます。17節以下、イエス様は「どんな国でも…その国は」と国の話をされる。支配という言葉です。支配がどうやって成り立つかという話です。そして20節で「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と神様の救いのご支配、ここでの一番の急所、御国の話をされるのです。

主の祈りで「御国を来たらせたまえ」と祈ることをイエス様は教え、また求められました。では私たちが、御国を来たらせたまえと祈る時、何をイメージして祈るのか。皆さんはそこで何を求めているでしょう。ともすると意味が分からんまま、まるでお経を唱えるように主の祈りを唱えますと間違って言われるほど、存外わかりにくいのです。

先週も、主の祈りがルカとマタイで、どう説き明かされているか比較しました。マタイでは、神様とお金、どちらに仕えるか、つまりどちらの支配のもとに身を置くかと、いきなり急所を突かれます。その後で、「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6:33)と。つまり天の父の救いのご支配を先ず最優先で求めなさい。それが「御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ」と祈る意味だろうと説き明かされるのです。

それがルカでは、つまり今朝の御言葉では、うんと実践的に、じゃあ私たちが「御国を来たらせたまえ」と祈る時、そこで何を求めて祈るのか。このことだろうと、私たちの生活の只中にズバリ、イエス様が神様として来て下さって、サタンの国を打ち破って下さるようにと、神様のご支配を求めるよう教える。御国をもじって、悪魔の国で魔国(笑)とでも言っておきましょうか。エフェソ書で「この世を支配する者」(2:2)と言われるサタンの支配、今なお何故か主の赦しによる救いを嫌わせて救いから人を遠ざけさせるサタンの支配を、今も!イエス様が聖霊様によって打ち破りに来て下さり、そんな魔の支配は追い出して下さって、私たちの生活に御国が来ますように!つまり天の父の救いのご支配、父の愛のご支配に、私たちがお従いできますようにと祈り求める。これはあなたたちに必要な祈りではないかと問うのです。

20節で「しかし、わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と、主は言われました。ここが今朝の説教の急所になります。「来ているのだ」と訳した言葉は、もう既に一度限りにおいて、既に来た!イエス様が来て下さったことによって決定的に、既に来たのだ!という重要な福音の宣言です。

「御国を来たらせたまえ」という祈りで勘違いしやすいのは、やがて天国が来ることだけイメージして天国を求める。ともすると、この世のことだけでなく、救いも大事だからと自分に言い聞かせるような祈りになりかねない、何となくの救いのイメージでしょう。でもその理解だと今の生活の中で!何を求めなさいと主から求められているかが、ぼやけやすいんじゃないか。「しかし!わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」。イエス様は神様のご支配が来るというのは、単に将来天国が来るというのでなく、もう既に来たと言われる。しかし未だ完全に来てはないので、サタンの支配を、主が追い出して、救いに向かって人を解放する働きをなさっておられるのです。人間の救いを妨げるサタンの支配は、すべての人の罪を償って死なれたイエス様の十字架の死と復活によって打ち破られた。具体的には、イエス様が、この者は、わたしが命を捨てて贖ったわたしのものだと、聖霊様によってご自身と一つとされた者は、もはやサタンの捕虜ではない。捕虜とされ支配されていた身分から、連れ出されて、神様のご支配の中に入れられている。だけど、未だ敵の抵抗は続くし、未だ捕虜とされている者たちを救い出すために、イエス様が教会を通して、聖霊様によって戦っておられて、わたしについてきなさいと、23節で言えば、一緒に集めるのだと、全員を召しておられるのです

この御言葉そのものが既に戦いを語っていますが、説教題にもつけた「既にと未だの間で祈る」。これを戦争の譬えで説明すると、戦争には、この戦いで勝利すれば後は時間の問題で必ず戦争全体に勝つという戦いがあるそうです。それが三位一体の御子が人となられて身代わりに死なれた十字架の贖い。この愛の戦いに勝利して、全ての人の罪が償われたので、私たちは神様以外の支配からの解放を祈ることができる。それは単に私たちの望みではない。主ご自身が、人をサタンの支配からご自身へと解放されることを求められて、私たちにも、さあ、一緒にこの救いのもとに集めなさいと、未だ残っている救いのための戦いへと招いておられるからです。その具体的な戦いの一つが、十字架の救いのご支配を来たらせたまえと「既にと未だの間で祈る」祈りなのです。

本物の戦争でなく将棋に譬えれば、サタンはもう詰んでいます。未だ対戦自体は続いていて、飛車や角で相手を食ったりさえできる。しかし何をどうあがいても既に負けていて、詰んでいる。なのに私たちよりもあきらめが悪くて、最後まで私たちを支配しようとする。最後までやめない。あくまで私たちを支配し続けようとする。悪魔だけに(笑)。

上の段、先週の御言葉で「しつように」祈り続けなさいとイエス様は教えて下さいました。救いの戸を叩き続けて、イエス様によって開始された救いのご支配を、聖霊様によって来たらせて下さいと祈り続ける。「天の父は求める者に聖霊様を与えて下さる」からと、今朝の御言葉とつなげて読んでも良いのです。聖霊様によって、あきらめの悪い救いの執り成しを、捧げ続けるのです。あきらめの悪ささえ、サタンに勝つことはできない弱い私たちです。でもその私たちのために、イエス様が、大丈夫だ、わたしのほうがもっとあきらめない、もっとわたしのほうが強いからだと、21節で「もっと強い者!が襲ってきてこの人に勝つ!」わたしが勝つと約束して下さっている。聖霊様は、その御言葉を信じさせて下さり、イエス様、私もあきらめないで祈りますと、うめきながらでも祈る祈りへと導かれるからです。

満足して祈れなくて良いのです。いわゆる勝利の祈りのイメージにも振り回されなくて良いのです。十字架の勝利が、どのようにイエス様によって勝ち取られたかを思い出したら良いのです。うめきながら苦しみながら、それでも父の救いの御心をあきらめないで、どうか、御心をなして下さい、御国を来たらせたまえと祈られた。そのイエス様の勝利に背負われて、一緒にうめきながら祈る私たちの祈りを、父こそは、その弱い私たちを決してあきらめないで、そうだ、それがわたしの求めだと十字架の救いの御力を、聖霊様によって来たらせて下さいます。

だから、御国を来たらせたまえ、今!私たちの弱さの只中に、また罪とサタンの支配の只中にさえ、十字架の勝利のイエス様が、聖霊様によって来て下さって、罪とサタンの支配を打ち破って下さい、私たちを、あなたが死ぬほどに愛されてやまない者たちを、あなた以外の支配から解き放ち、解放して下さいと祈る。すぐに解放されなくても。未だ戦いは続いても。あきらめないで、祈り続ける。イエス様、聖霊様によってご支配くださいと祈り続ける。遅くなっても、主は来られます。私たちの求め通りでなくても、主は御業を行いに来られます。その御業を待ち望み、忍耐して祈りの戦いを祈り続ける。その人は、イエス様と一緒に集める者。その祈りはイエス様と一緒に、救いの喜びを集めるのです。