エフェソの信徒への手紙6章10-20節、ゼカリヤ書12章10節「御霊の剣と祈りで勝つ」

21/7/25主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙6章10-20節、ゼカリヤ書12章10節

「御霊の剣と祈りで勝つ」

人生は戦いのイメージでよく言われます。例えば子育ては戦いだ、と言われて、え?そう?と思われる方は本当に幸いだと思いますが、そうそうと思われる方であっても無論、我が子と戦うわけではない。むしろ我が子にどうして優しくできずイライラするのかという自分の愛のなさや罪と戦うのでしょう。そして今朝の御言葉はハッキリ教えるのです。そうだ、私たちの戦いは血肉、つまり人間を相手にするものではない。私たちを神様から引き離し、その救いの御心を嫌わせ遠ざけて、教会でも争わせて、ほら神などいないと思わせる「悪魔の策略に対して」戦う、十字架の救いによって勝利された主の力によって、キリストにお従いすることで戦うのが、全てのキリスト者の戦いだからです。愛すべき者を愛せない戦いの背後にも、そうした「暗闇の支配」が働いていることを時に感じることもあるのではないかと思います。

この「支配」については二週前のエフェソ書1章の説教でも説きましたが、また次週、この支配は本当にシツコイので、だから根気よく祈り続けなさいと求められていることの中で改めて説き明かします。

今日の中心は18節で、直訳は「あらゆる時に御霊の中で祈りなさい」と命じられている、この「聖霊様による祈り」をどう祈るのか、です。

先ずはこれが、人を神様から引き離し救われないように束縛しているサタンに抵抗する戦いの武器、しかも有力な戦力であるから、用いよ、御霊によって祈れと命じられていることを受け取って下さい。想像してください。武器なしで敵の前にいる自分を。でも、持っている人が隣にいたら、きっと思う。私も欲しい!絶対に要る!と。それが御霊による祈り、そしてセットで教えられる17節の「御霊の剣」です。これによって、単に敵の攻撃に耐えて防御して、立ち続けていれば最終的に勝てるという全く受け身の戦いではなくて救いの戦いを戦えるからです。

でもそれには、先週のユダの手紙での順番でも、先ず自分を神様の愛の中、キリストの憐れみによって守って、その憐れみによる執り成しの祈りを聖霊様によって祈ったように、先ず「神の武具を身に着ける」。そして初めて、11節で言えば「悪魔の策略に対抗して立つことができる」からです。13節でも「邪悪な日に、つまり誰の支配なこれ!という支配に抵抗して…しっかりと立つことができる」からです。同じことは前に「与えられない願い」を説いたヤコブ書でも、こう言われていました。「神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば悪魔はあなたがたから逃げて行きます。神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」(4:7-8)「服従する」も軍隊用語で、上官に従うことですが、私たちの将軍は、ご自身を武具として与えられて、あなたはわたしを着て、身を守り戦いなさいと命じられるのです。14節以下の「神の武具」は、言わばキリスト者の心構えの譬えとも言えます。真理はキリスト。義もキリスト。福音もキリスト。信仰も、キリストの恵みの勝利を信じる以外の何を信じるのでしょう。ロマ書では「光の武具を…主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)と言われるほどです。

続く17節の「救いの兜」と「御霊の剣」、直訳は「受け取りなさい」という一つの命令です。受け取るしかない。勝ち取るのではない。特に攻撃のための剣は、御霊から恵みとして受け取る。ここが今朝の急所の一つです。自分の力では勝ち取れない。でも、受け取りなさいと命じられて、御霊から与えられるから、積極的に受け取るのです。即ち神様の御言葉を、救いの戦いのための武器として自分から受け取る。そして、セットで言われる「御霊によって祈る」祈りも、自分の求めを自分の力や自分の霊的調子や気分で祈るのではなく、祈るのは他の誰でもない、私に祈りなさいと命じられているのですけど、その内容、特に何のために祈るのか、何を求めて祈るのかという祈りは、聖霊様の中で、聖霊様が求めておられる目的に身を置いて祈る。ズバリ言えば、救いの御心に飛び込んで祈るのです。そこに御霊の中で祈ることが、御霊の剣を受け取ることと、セットで命じられている理由があるからです。

そこでも急所は、何のため、あらゆる時に御霊の中で祈り、御霊の剣を受け取るのか。何のためか、です。そもそも何の戦いなのか

ここで「神の言葉」と訳された言葉は、神の語りを受け取りなさいと言い換えても良い言葉です。こう言えばわかりよいでしょうか。当時は皆が聖書を持っていたわけではないし、読めたわけでもない。もちろん暗唱して、その御言葉によって祈ることで、父に聴かれる御心を御霊によって祈ることはあった。今の時代で言えば、キリスト者は聖書を読んで、祈ると。それ自体は決して間違いじゃないので、ついそのイメージで考えやすいのですけど、この御言葉の順番は、聖書から祈りではないのです。直訳は「御霊の剣、神の語りを受け取りなさい、全ての祈りと嘆願を通して、あらゆる時に御霊の中で祈りながら」と、20節までつながっていきます。つまり御言葉を受けて祈るというより、むしろ御霊の中で祈る祈りを通して、御霊の剣である神様の語りを受けなさい。

そして一番の急所は、御霊の中で祈りなさいと命じられている、その御霊の祈りの内容、祈祷課題が続いて命じられていることです。「すべての聖なる者たちのために、つまり全てのキリスト者たち、教会員たちのために」あらゆる時に御霊の中で祈られる全ての祈りと嘆願を通して、御霊の剣、神の語りを受け取りなさい。言い換えれば、人を救う福音の力を装備して戦いなさい。全キリスト者、全教会が、救いの戦いを御霊によって戦えるように。これが御霊の祈りの目的です。キリストの救いを受け取りたくないように人々を束縛している悪魔の策略、支配から、しかし御霊による祈りを通して語られる御霊の剣、救いの御言葉を聴いた人々が解放されて、キリストを受け取って救われますようにと祈る。だから19節以下、聖なる者の一人である使徒パウロのためにさえ福音伝道の言葉が与えられるように祈って下さいとつながるのです。

つまり、この戦いは何の戦いなのか、なのです。単に倒されないための、自分が守られるための、嫌だけど、攻撃されるから戦わないといけない戦いなのか。決してそうではない。これは御霊の祈りと剣によって愛する者たちを取り返しにいく戦いです。戦場の只中で救いの武具を身に着けてない、言わば無防備な捕虜として捉えられている愛する者たちがキリストの救いを受け取るための戦いを、私たちは戦うのでしょう。救いの兜を受け取ってほしい。もし自分が受けた兜を与えられるなら、与えるでしょう。違うでしょうか。でも人の力では与えられんのです。キリストから受け取るしかないのです。だから!15節の「平和の福音を告げる準備を履物と」して、準備して、単に心構えだけでなく、現実の戦いとして!日課として、あるいは一日に何度も、聖霊様によって祈るのです。家族を、隣人を、この人をお救い下さい、主よ、聖霊様によって、あなたの救いのご支配を、御国を来たらせて下さいと祈るのです。その時が来たら、御霊の剣である神様の語り、福音の神秘を示せるように。聖霊様が聴く人の魂と霊とを貫いて、キリストの救いを受け取らせて下さるように、御霊の中で祈るのです。私が受洗した年、友人が、神が人を土から創ったと言う聖書は信じられないと言うので、死んで土になるなら創れるがやないと言った語りが、その友人の魂に解放の剣として届きました。その理由を改めて思います。毎日その友の救いを御霊によって祈っていました。すべてのキリスト者が本当は求めている、この救いの戦いに、ならばこそ御霊による祈りと剣が、もう既に与えられている。だから、この御霊の力を信じ、その中に身を置いて祈るのです。