21/7/18主日朝礼拝説教@高知東教会
ユダの手紙17-23節、詩編103篇
「裁きから助け出す祈り」
祈りなさいと教える御言葉から聴き続けています。だいぶ具体的な、では実際にどのように祈るのかという実践的な御言葉に入っています。今朝の御言葉と来週のエフェソ書の御言葉は共に「聖霊様によって祈りなさい」と命じられている御言葉です。あるいは「聖霊様の内に、中で祈りなさい」。英語で言うinという言葉です。21節では「神の愛によって自分を守り」と訳されますが、これも英語で言えばin love of God。つまり「聖霊様の中で」「神様の愛の中で」と同じスタイルが続く美しい文体で命じられているとも言えるのですが、大事なのはむしろそのことで何を、どんなイメージを私たちに伝えているかです。「神様の愛の内に自らを保つ」。わかりやすいイメージだと思います。幼子が親の腕の中で自分を守ってもらう。自分で自分を守るより安全であることを、幼子は知っています。大きくなると、親の言うことを守るのが、うざいと思うかもしれない。でも親は子を守ろうと思って、まあ人間の愛は不完全で自分が支配してやろうという思いが混じるので、うざいと思われることも当然あると、私も身を低くしながら思いますが、でも我が子を守ろうという愛から出る言葉があることも信じてもらいたい。多くはそうだと私は信じていますが、ならば神様に!愛から出ない、我が子を守らない言葉があるのでしょうか。神は愛です。沢山の命令、律法があります。でも「律法全体は、隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」(ガラテヤ5:14)と言われる通りです。神様の言葉の中に身を置くことが、すなわち神様の愛の中に自分を守り、保つことだというイメージは、そうだなと思わるのではないでしょうか。守ってないこと、あるいは守りたくないという反抗心があると、素直にはなれない気持ちがあったとしても、ならばこそ続いて「キリストの憐れみを待ち望みなさい」。これも直訳のイメージで言えば、前かがみになって両手を差し出して、お与え下さいと熱心に求め、受け取ることを待ち望んでいる姿です。イエス様が憐れんで下さる。その優しさ、深い憐れみ、主が私の主で良かったと、十字架の赦しと憐れみと愛のもとに安らぐことができる。そうだ、この愛の中に自分を守ってもらうのだと、神様の救いの何たるかを、改めて自分の救いとして知らせていただける。それが、「聖霊様の内に祈りなさい」というイメージにもつながるのです。
言い換えれば、自分で自分から出た自分の求めることを、神様神様と願うのではない。三位一体の父から与えられた聖霊様によって、神様をアバ父、お父さんと呼ぶことのできる関係の中、父の愛の御心の内に、救いを求めて祈るのです。聖霊様によって示され、聖書に証される福音の真理、キリストによる救いの御心を、私たちの心を照らして示されるのが聖霊様ですから、照らされた御言葉の内に祈ると言っても良いかと思います。先週の御言葉エフェソ1章で「知恵と啓示との霊」聖霊様を与えて下さいと祈るゆえんでもあります。
それは今朝の御言葉19節とは対照的な姿です。「この者たちは…この世の命のままに生き、霊を持たない者です」。「この世の命のままに」を言い換えると、18節2行目の「不信心な欲望のままに」。つまり神様を人格と人格とで向き合って知ることを求めず、神様を神様としないで、勝手に神はこうやろ、ああやろと、あるいは神よと祈ることもあるけど神様の御心は求めない。それが「この世の命のまま」の姿。聖霊様によってアバ父、私のお父さんと、父と子の関係、その愛の中に自分を守ってもらう愛と信頼の喜びがない「霊を持たない」姿です。それと対照的に、わかりやすく命じられるのが、父から与えられた「聖霊様によって祈りなさい」。自分で自分のために祈るのではない。聖霊様の内に自らを置いて、委ねて、御心をなさせたまえと、うめきながらでも御心を求め祈る、聖霊様による祈りです。これは前にローマの信徒への手紙8章で「聖霊様がうめきをもって執り成して下さる」(26-27節)と励まされた御言葉も改めて読んで祈って下さればと願います。
来週もこの「御霊によって祈りなさい」をエフェソ書から説き明かしますので、だんだんと深まっていくと思いますが、そこで大切なのは、この神様の愛の内に、聖霊様の内に身を置くこと、主の憐れみを前に、つんのめるが如くに両手を差し出して憐れみを求めることが、私たちの積極的な愛と信頼の態度と行動であることです。愛と信頼の関係を深めること、聖霊様によって祈ることは、積極的な愛の求めによって、前に向かって行くこと、求めることによって、満たされます。求めなさい。そうすれば与えられる。一方的な愛の関係など父は求められません。それは父と子の相応しい関係ではありません。神は愛です。求めなさい。愛しなさい。そこに父の愛のご支配、御国は与えられます。
そして!です。ここが聖霊様によって祈りなさいと命じられる時の、では何を特に祈るのかなのですが、22節は「そして」という言葉で前と繋がるのです。しかも、先に前につんのめって求めた「主の憐れみ」と繋がるのです。その憐れみは、単に私たちのためだけに求める憐れみでしょうか。神の愛の内に自分を守れというのは、自分が守られたらよいのでしょうか。決してそうではありません。この憐れみは、十字架の主の憐れみです。その憐れみによって再び私たちを完全に救い出しに来て下さって、最終的に、生きている者と死んだ者とを裁かれる主イエス・キリストの憐れみです。その憐れみが22節で「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい」と命じるのです。「他の人たちを火の中から引き出して助けなさい」と求められるのです。そして繰り返し最後に「また他の人たちを用心しながら憐れみなさい、あるいは自分も罪に誘惑される弱さを持っているからと、罪と汚れから共に引き上げ救い出して下さる神様に対する聖なる畏れの内に、罪と汚れの中にある人々に対して、十字架の主の憐れみを現わしなさい。」汚いと裁くのではない。また汚くないと神様の聖なる義の信仰を無視して、あざむくのでもない。20節で命じられるように、でも私の信仰はこの程度というのではなくて、聖なる公同の教会に聖霊様によって与えられた「最も聖なる信仰の土台に、直訳は、自分を建て上げて」祈るのです。私はキリストの体、教会の一員だ!と既にそこに示されている御心の真理によって、だから私はこの人たちの救いのために祈りますと、聖霊様によって祈るのです。私たちが待ち望むキリストの憐れみが、単に、ああ可哀そうにと同情してくれるだけで何もしないのでなく!そんな憐れみなど誰も待ち望んでなくて、主よ!助けに来て下さい!あなたの憐れみのご支配を来たらせて下さい!この戦いにあなたの勝利を下さい!罪に負けさせないで下さい!愛する者を火の中から救い出して下さい!と聖霊様によって、キリストの憐れみの中に飛び込んでいくようにして祈るのです。こう言っても良い。聖霊様によって祈る祈りは、このイエス様の憐れみによって祈る祈りだと。罪への裁きに打ち勝って私たちを救われる主の憐れみの勝利に身を置いて祈る祈りだと。
聖霊様によって祈る。実際に祈る時、どのように祈ればと思うなら、たぶんこうですよねの自分の信仰の中で祈らずに、聖書の御言葉の通り本気で祈ればよい。愛する家族を火の中から引き出して助けさせて下さい、あなたの憐れみを下さいと本気で祈ればよい。それは聖霊様による執り成しと御力を求める祈りとなります。父は御子を私たちの身代わりに裁きの炎で焼き尽くされて、私たちの罪の償いとされた父です。この愛の中にのみ自分を守って祈る。「憐れみなさい…助けなさい」と命じられるキリストの憐れみの到来を、そうして祈りつつ待ち望むのです。