エフェソの信徒への手紙1章19-23節、詩編59篇17-18節「神様の力を悟る祈りを」

21/7/11主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章19-23節、詩59篇17-18節

「神様の力を悟る祈りを」

祈る時、天の父は、この必要・苦難に対して、助け、救い出し、解決なさる力をお持ちだから!と信頼して祈るのと、信頼とかは意識せず、とにかく助けてと祈るのが、違うというのは、おわかりであろうと思います。何が違うか。おそらく父との関係が違うでしょう。信頼の関係があるかないか。あるにはあるというのではなく、深い信頼で父を知って祈る愛と信頼の関係は、祈りを深くするのです。

その父を深く知る祈りを、先週は今朝の19節の前のところから説き明かしました。今朝の19節からの祈りは17節からの祈りの続きです。つまり「知恵と啓示との霊を父が与えてくださって、父を人格と人格の交わりの内に知り、あなたがたの心の目が照らされるように」。そこから繋がる19節を直訳します「父の強さの力の働きに従って信じる私たちに注がれる父の力のその超えていく大きさの何たるかを、あなたがたが見るために」。

単に神の力を知るようにとは言わず、え?どんな力?と理解しかねるような大きな父の力を、心で見るために祈る。言い換えれば、神の力を信じて祈るがねというような情報提供ではない。目が覚めるような父の力を、この心に見させて下さい!と祈る。それが教会の祈りと生き方を変え、キリストの体としての祈りと生き方に導くからです。

信じて祈るとよく言われますが、何を信じるのか。この超えていく父の力の大きさを信じて、だから、あなたにお願いしますと父に信頼して祈るのです。この力を、頭でなく、心が明るくなるように、そうかと励まされ知ることで、不安が少なくなるとか信仰が増すということは無論あります。でもそうした自分のことだけでなく、祈りへと励まされる。この人の救いのために、この兄弟姉妹の必要、困難のために、父よと、父の超えていく力を知ったら、祈りも今を超えていくからです。

繰り返しますが、父の力は「超えていく」大きさです。おお、父よ!と分かった大きさを、父の力は、常に越えています。だから、いつまでたっても分からないほど大きな父を知ることが私たちを変えるのです。あるいは、その大きさの理解そのものが変わらなくても、その大きさに対する態度が、前の態度よりも超えて祈れる。いつまでも新しく大きく信頼を成長させる、マンネリ化させない大きな力を、父はお持ちです。

なのにマンネリ化が起こることも、特にいわゆる祈りの戦いにおいて具体的に私たちが知っている弱さであるでしょう。言わば父の愛の力の大きさを固定化させ、祈りを固定化させ、キリスト者としての生き方を固定化させマンネリ化させるような、言わば何かが自分を支配しようとしているのじゃないかという戦い。それが私たちと父との愛の信頼関係を停滞させ後退させ、支配さえしようする。私たちの外から、内から、自分で信仰だと思っていることの中でさえ、その力が働いて、父の力の超えていく大きさを、見ないようにさせる。御霊によって祈らんようにさせる。超えていく父の大きさに励まされて大胆に祈るのではなくて、言わば弱気に祈るよう別の力が祈りを支配しようとする。弱気な祈りの背後に、例えば、これは神様に願っても無理だ、祈る意味がないと思う支配、ないでしょうか。例えば、祈っても天気は変わらんと、最初から父の大きさを制限する力。いわゆる常識に支配され、祈らせない支配。キリストによって支配なさる父の御国のご支配以外の支配に、無意識に束縛されていることもある。そうした支配をこの御言葉は説くのです。

21節「すべての支配、権威、勢力、主権」少し飛んで「今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名」と、先の父の強さの力の働きみたいに、似たような言葉が並べられます。しまいには、それらがどんな名称で唱えられようと「あらゆる」そうした支配やら力の一切は「父がご自分の右、つまり御国のご支配の座に着かせられたキリスト」の足もとに屈服させられ従う力とされていると強調されます。何故か。キリストによって明らかにされた父の超えていく大きな力を見るより、別の力を見やすいから、しかも勘違いして見やすいからでしょう。

その勘違いさせる力を、支配と呼ぶとイメージしやすいかもしれませんが、もともとこれらの名は、いわゆる政治の世界での言葉です。勢力と訳された言葉は、むしろ権力と訳される言葉ですが、要するに、人やお金や活動を動かす力のことです。例えば礼拝で祈りましょうと言うと祈ろうと心が動かされる。それも力です。動かない人もいるでしょう。力とはそういうものです。無理に動かすと暴力と呼ばれる。上からの力で動かす力を、権力とか支配という言葉で呼んで嫌う、特に高知の人は嫌う(笑)のですけど、そういうイゴッソウの態度自体、誰かや何かの影響、力を受けてないでしょうか。それらの力が、どんな名で唱えられようと、力が人を動かし、支配して、束縛する。例えば権力には抵抗せないかんという態度自体、別の力に束縛、支配され、自由ではない。俺は自由ぞと頑なに、自分は大丈夫と固定化させる力が、勘違いさせる力でもあるのです。キリストの救いのご支配以外に、本当に自由にする力と支配はないのに!それ以外の何かにこだわって、これが自分だとか自分の生き方だとか、これが私には絶対なんだとこだわる束縛がある。ほとんど宗教、あるいは小さな神々の支配。それらの背後あるいは上にサタンの力が働いていることを、下の段2章2節は明白にします。この支配との戦いについては再来週、エフェソ6章の説教で改めて説き明かしますが、今朝の御言葉が、しかし、一番ハッキリと強調し、それ故に皆さんに確信して頂きたい、知恵と啓示の御霊によって、見て、信じて祈り求めて頂きたいのは、先に強調したキリストによるご支配です。

私たちが無意識に、あるいは知っていながら束縛され、あたかも支配され、もうあきらめて、あるいは頑なにさせられているかもしれない、隠れた、あるいは明らかな支配や力が、皆さんにとって何であろうと、です。この御言葉が断言し、それ故に断固として祈られるのは、それら「全ての支配、権威、権力、主権の上に」、父がキリストを勝利者として座らせてくださり、それらはキリストの足もとに従わせられた力でしかないという、父の超えていく大きさの真理です。父はあらゆる力、一切の支配をキリストの十字架に釘打たれ、御子と共に葬って無効にして、全ての力と支配は、わたしの超えていく力により復活した御子に従え、わたしの全能の支配の座に座るキリストに従うものとなれと、それ故に一切は私たちを束縛・支配できない力とされた。どう見えても!御子を人間の救いのために犠牲となさった父の、超えていく愛の力の大きさの中で、一切は私たちを支配してはならない。どんなにその力が強くて、目に見える影響力と結果に心を支配させてしまって、弱気になっても、ならばこそ目を閉じて祈るのです。御子をさえ惜しまずに死に渡された父の大いなる愛から、誰も私たちを奪い取ることはできないのですと。父を信頼し、その霊的な真理を見させて下さいと、知恵と啓示との霊を祈り求めて、全てを超えていく大いなる愛を、死をさえ越えていく復活の御力を、私の心に見させてくださいと、うめきながらも祈ればよい。御霊が祈って下さいます。この御言葉を、ご自身の霊感によって記された聖霊様ご自身が保証される、この御言葉の真実に立って御霊によって祈るのです。私たちを誤解させ、支配しようとする力の上に、いま生きて働かれるキリストのご支配を来たらせて、御心を行なってください、キリストを信じて、その御国を求める、キリストのものとされた私たちにキリストの勝利のご支配を与えて下さいと、弱さ貧しさの中で祈ればよい。父の超えていくご支配は、キリストの体に満ちるからです。