エフェソの信徒への手紙1章15-18節、詩84篇「神様を深く知る祈りを」

21/7/4主日朝礼拝説教@高知東教会

エフェソの信徒への手紙1章15-18節、詩84篇

「神様を深く知る祈りを」

使徒パウロが「祈りのたびに」エフェソの教会員たちを思い起こして感謝していた。つまり毎日祈るたび!よくわかります。私も毎日教会員のため祈りながら感謝します。姉妹を兄弟をお救い下さり、ありがとうございますと。そしてパウロは何よりも教会が「栄光の父を深く知る」ことを求めて祈りました。他の必要よりも何よりも、御子をくださった栄光の父を深く知ることを!子が父を深く知り、父と交わることこそ、全ての子に対する当然の父の求め、また栄光です。いわゆる博愛で世界を救い独り子を犠牲にした神ではありません。一人一人を我が子よ!と求められる父だと知る。私の父として深く知る。人生も祈りも教会も、そのことで変わります。私もこれから毎日パウロを真似て祈ります。

「深く知る」と訳された言葉は、旧約聖書から培われてきた聖書的な意味で訳し直すと「上からの、献身によって知る人格と人格の交わり」と言えます。交わりによって知る以外ない知る。父と子が言葉を交わすことで互いの人格を知るように。また自分を相手に献げることで関係が深くなるように。これはズバリ、献身して知る愛の関係だからです。

聖書が差し出す具体的な例で言えば、ある家の養子に入った子供が、その家のお父さん、つまり養子とされた時から自分のお父さんとなった人に向かって、お父さんと呼んで、父子が持っている間柄、距離や感情の交わりがある。それと、お父さんと呼ばない間柄、距離と感情の体験は、異なるでしょう。それはドラマで、新しいお母さんとなった人が、お母さんと呼ばれて、涙を流して喜ぶ場面がありますが、そこには両者の側で愛の献身がある。栄光の父と私たちの関係は、父よと呼ぶだけで祈りとなる関係です。どれだけ願っても祈りにならない願いもあれば、何も願わなくても祈りになる祈りがある。何を願うよりも、父を求める子の祈りに父が満たされ、そこに御国と父の義が先ず求められ、全ての必要が満たされる、霊による祈りが与えられます

それが、聖霊様によってのみ父よと呼べる「上からの交わり」の内に始まり成長し深くなる「上から与えられる父子の交わりの知る」です。

17節では栄光の父が与えられる「知恵と啓示との霊」と呼ばれます。知恵とは、言わば頭の知識が行動を伴い身を献げて、これか!と明白になる知るです。体験で知る他ない、体験に導く知るとも言えます。前に愛と祈りは同じだと申しました。愛は知識で知るものでなく、献身して初めて知る、しかも相手と関わる中でしか知り得ないのが愛です。祈りもそう。愛が愛することでしか成長しないように、祈って父との交わりを知る中でのみ、父の愛も、人格的に知るようになります。

愛も祈りも、一緒に時間を過ごす、しかも二人だけの集中した時間を過ごす必要があります。その中で父を愛し、父を知る。だからこそ更に祈りたくなる関係の成長は、まさにこの御言葉で啓示されたとおりに啓示の霊を求めて祈る交わりの中で上から与えられる成長です。

啓示とは、何かが隠されている、その覆いが取りのけられて、中身が明らかにされて見えるようになる恵みです。例えば、私にはキリストが私の救いの神様だとは隠されて見えませんでした。でも聖霊様によって、イエス様は私を造られて私のために死なれた私の救いの神様や!と心に見えて、それで信じた。それが啓示です。

知恵と啓示との聖霊様によって、父よ、あなたをもっと見えるようにして下さいと、だから祈る。その祈るという知恵を通して、啓示の霊である聖霊様が覆いを取り除き、この方が私の父だと人格的に知ることができるよう祈らせて下さり、父との愛の時間を過ごさせて下さいます。理屈抜きで。私は妻に最初は理屈臭い愛の言葉を語っていたにも拘らずたぶん嫌われんかったように(笑)、父こそは!いいです、理屈臭い理由で祈っても、父はご存じです!あなたは父を求めているのだと、だから聖霊様を上から注いで下さいと、我が子が祈っているのだと、この世の思いや罪で覆われた目に、十字架で示された栄光の光を与えられます。父の豊かなご人格を。その深い懐と情けと、聖なる厳かさも。私たちが知るべき父のお姿を、そして私たちの本当の生きるべき姿、父から受け継ぐべき栄光の豊かさを、何よりも先ず求めるべき必要と祈りを、父は御子を遣わされた恵みの御座より、上より!与えて下さるからです。

これを父が保証し、呼びかけて下さっている。おいで、信じなさい、御子を与えたことも、御子に従いなさいとあなたを呼んだのも、すべてあなたがこの栄光を受け継ぐためだ、我が子よ、我が子よと、永遠の光の中で父が呼んでおられる。その方を私たちは、父よと呼び、主の祈りで、栄は汝のものと祈る。その栄光の何たるかを、心に啓示の霊の光が満ちるようにして知るのです。言葉にならんでも、それは賛美になる。

祈りは、ただ願いを献げる行為ではなく、父を知り、父が子を知る、愛の時、十字架の時、復活の時、栄光の父の御心の何たるかが、理屈を超えて明らかにされる、栄光の父と霊的な時間を過ごす時だからです。