21/6/27主日朝礼拝説教@高知東教会
ㇸブル人への手紙5章7-10節、詩編22篇
「御子と共に嘆いてよい」
先に読みました詩編22篇。これはイエス様の十字架の悲しみの叫びと、しかし、それによって成し遂げられる私たちの救い、神様の御心、敢えて言えば父の悲願がなされることを賛美する歌、賛歌です。
讃美歌142番に「恵みと悲しみこもごも流るる」という歌詞があります。棘の刺さる主の頭から、釘で打たれた手から足からイエス様の血が流れ落ちるのを見て、あれは主の恵みと悲しみがこもごも入り混じって一緒になって流れ滴って私たちを救うのだと、主を賛美する。悲しみ、嘆き抜きでの救いではない。詩編22篇が嘆きの歌であることは間違いない。それは忘れてはならないと思います。詩編には、主に嘆き苦しみを訴える祈りが多い。その多さに深い慰めを覚えるほどです。天の父は私たちの嘆きを退けられない。うるさい、もうやめ、と言われる方ではない。聴いて下さる。そのお体に苦難と嘆きが刻まれた御子、イエス様は尚のこと、私たちの嘆きをご自分の嘆きとして、痛みとして、胸痛む深い憐れみと共に、主は嘆きを聴かれる方だからです。
主を信じる者が、悲しみ、嘆き祈って良いのです。罪の世にあって、罪の悲惨と胸痛む汚れを見て、悲しみを一切覚えないということはないと思います。悲しくないふりをすることはあっても。断食する時、人に見苦しい顔を見せないようにと主は言われました。シスター渡辺和子だったと思いますが、心に苦しんで暗い態度を取ってしまう時でも、それで人を不快にさせる権利は誰も持ってはないのですと言われた。これも悲しみを引きずる時、心に思い出す言葉です。ただ家族にはつい甘えて暗い顔をしてしまうので申し訳ない。悔い改めます。また聖書が「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。」(テサロニケ一5:16-17)と、私たちの顔を天に向けさせる御言葉も、祈りなくしては言い得ないから、「祈りなさい」と励ますのでしょう。悲しみの只中にあって尚、喜べる理由があるからです。いつもと励まされるのは、いつも主が共におられるからに他なりません。嘆きを聴かれる主がいつも共にいて下さる。
主は、「悲しむ者は幸いである、その人は慰められるから」(マタイ5:4)とさえ言って下さいました。悲しみを引き起こす罪ごと、弱さごと全部背負って全て引き受けて解決しに来て下さった永遠の御子が、わたしが背負うからと、泣きながらでも背負って、私たちを救い出して下さる。そのために人となり、弱くなられ、悲しくて苦しくて泣きながら、でもだからこそ祈って、嘆き祈って嘆願されて、父よ、御心をなしたまえと、強く私たちを愛し抜いて下さった。そして今も!主は、生きておられる完全な救い主として、今もこれからもずっと私たちを愛し抜かれ慰めて下さる。永遠に。永遠に!これがいつも喜べる理由です。
永遠の主から与えられるこの喜びは、不完全な喜びではありません。言い換えれば、今願っていることが叶って喜んでも、失ったら終わりという一時の、過ぎ行く朽ちる無くなる求めが一時満ちる喜びではない。それが先週の御言葉で「私たちは何を祈るべきか知らない」から聖霊様が「弱い私たちを助け…うめきをもって執り成して下さる」(ローマ8:26) と励まされる、御霊による祈りと重なるのです。目の前の必要や自分の弱さからくる切実な求めに、どうしても人は揺さぶられ、神様の救いの御心の実現「神の国とその義を、何よりも先ず、求める」(マタイ6:33)祈るべき祈りを、だからでしょう、祈ったとしても苦しんで祈ることがある。自分の思いでは、自分の願い「嘆願」嘆きが先ず終わることを求めたい。切実なのです。それはキリストご自身その弱さを、身に染みて叫ぶほど切実に、泣くほどに、ご自分の痛み悲しみ求めとして泣いて祈られた求めです。十字架で身代わりに死ぬために人となられた、そのために同じ弱さを負われた永遠の神の御子が、その弱さに押し潰されて、悲しくて泣いて叫んでゲツセマネの園でこう祈られた「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:35)。それを今朝の7節はこう説き明かすのです。「キリストは…激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願い(嘆願)とをささげ、その畏れ敬う態度の故に聴き入れられました。」
その涙の叫びはまた、先の詩編22篇で預言された十字架の叫びをも含む、父への嘆きの祈りです。「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになられたのですか」。何故わたしが見捨てられなければならないのか。その答えを、十字架で私たちの身代わりに捨てられた御子は父から聴くことさえ叶いませんでしたが、その代わりに、いやそれだからこそ、御子が捨てられて答えられなかった祈りの答えを、私たちは、聴かれた祈りとして父から聴くのです。わたしがあなたを捨てたのは、そのことであなたが執り成して引き寄せる全ての者をわたしが赦して救うためだ。あなたの死の故に、わたしは彼らを決して見捨てない!それが7節で、主が泣いて祈られた、聴かれた祈りなのです。「キリストは…激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと嘆願とをささげ、その畏れ敬う態度の故に聴き入れられました。」死んだのに、何が聴き入れられたのか。主は泣きながら何と祈られたのか。「しかしわたしの願いではなく、御心がなりますように」。そのためにわたしは来たのに、弱くて苦しくて仕方ないです。でも父よ、あなたの救いの御心がなりますように。「その畏れ敬う態度のゆえに」祈りは聴かれた。そしてこの祈りを、聴かれる祈りを、聴かれなければならない祈り、弱くても悲しくてうめきながらでも、祈られなければならない祈りを、聖霊様は私たちの内からうめき求めさせ、言葉にならなくても祈らせて下さって救いを求める、このうめく祈りを父は聴いて下さる。
そこに御国は来ます。父が永遠の御子を犠牲にしてまでも求められる私たちを救いに来て下さる。いや既にイエス様の到来によって、神様の救いのご支配の到来が、もう始まっている。キリストの名によって祈るそのところで、御霊によってうめいて主の祈りが祈られるそのところでキリストご自身が御霊によって来て下さって「神の国は、あなたがたの只中にある」(ルカ17:21)、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と宣言し招いて下さっているからです。
その救いの招きに、はいと答える。それが今朝の御言葉の「従順」という、繰返される大切な言葉です。ただし言葉のイメージで、私は従順じゃないからと敬遠される言葉でもあるかもしれません。もとの意味は「身を低くして聴く」という言葉です。イエス様が、弱さに押し潰されながらも、父の御心をアーメンと聴いた。私たちも聴いているのです。何よりも福音を聴いているのです。十字架の主にアーメンと背負われ、ついていく。決して捨てられることのない完全な愛の中を、主に愛し抜かれ、聖霊様に助けられ、決して朽ちない、悲しみと虚しさに終わらない喜びに向かって、全ての人のために、うめきながらでも祈るべき永遠の救いの喜びに向かって、私たちは、はいと背負われて愛されて、御国を来たらせたまえと祈るのです。全ての必要は、御子をくださった父の愛の中に、私たちの思いを遥かに超えて、満たされるからです。そこで私たちがもし苦しんだとしても、そうであれば尚の事、イエス様が近く近くいて下さって、わたしはあなたと共にいて、あなたを背負い、共に苦しむ。あなたの助けとなり、祈りとなり、叫びとなる。共に祈ろうと祈って下さる。その祈りは聴かれます。だから祈れるのです。イエス様の救いの嘆きに背負われた幸いの中で祈れるのです。