ヘブライ人への手紙4章14-16節、詩編89篇1-5節「主の名に負われ祈ろう」

21/6/6主日朝礼拝説教@高知東教会

ヘブライ人への手紙4章14-16節、詩編89篇1-5節

「主の名に負われ祈ろう」

イエス様のお名前によって祈る。皆さん祈りの最後に、多少言い方は違っても、イエス様のお名前によって、と祈ると思います。その時に、どんなイエス様のイメージで祈られるでしょうか。イエス様は、その時どんな思いで何をなさっていると思われるでしょうか。今朝の御言葉はそこに一点集中します。次、イエス様の名によってと祈る時、イエス様と一緒に祈っている自分を知ってほしいと願います。その時イエス様は父に願って下さっています。父よ、この者はわたしと一つに結ばれた、わたしの愛する者、あなたの愛される子です、お願いしますと。

御言葉は私たちに「大胆に恵みの座に近づこう」と励まします。裁きの座に、ではない。でもおそらくそこが、祈らない原因なのです。私も含め多くのキリスト者は多分、祈る気分じゃない時がある。時間があり祈るべきだと思う時でも、祈りたくない、神様の前に行きたくない時、ないでしょうか。大胆に言えば、信仰がある他の人が祈ったら聴かれる同じ祈りでも、今の私は無理だろう、愛も信仰も足らず、世の中のこと自分のことで心が汚れ、祈りを聴かれる条件を満たしてないからと自分で思っている時、ないでしょうか。誰だって、自分は悪いと判断されて、良いと認められない裁きの座には近づきたくない。自分が認められない場所にも相手のもとにも、近づきたくないですよ。でも実際は、自分の心の裁きの座から、肉の自分が裁いているんじゃないでしょうか。お前が祈っても認められんき、神から愛されることしてないろう、近づいても嫌な顔されるでと、ささやく誘惑、ないでしょうか。

神様が嫌な顔するとは、たぶん思わんかもしれません。でも今の私が喜ばれはせんと自分で裁いていたら、義務で近づくみたいな渋々顔で、はばかりながら祈りますと、昔から義務で祈る誘惑があったのかもしれません。だからもあるでしょうか。明治に訳された文語訳は16節をこう言います「この故に我らは憐みを受けんが為、また折に合う助けとなる恵みを得んが為に、憚らずして恵みの座に来たるべし」。

憚らずして!はばかることなく、何の差し障りもなく!つまり自分を裁き判断して、今の自分は喜ばれない、祈るのに差し障りがあると判断して自分を裁く差し障りこそ、大胆に捨てるのです。確かに自分自分で汚れ、神様の愛の正しさに足りない。正しい判断です。でもだからこそ天の父がその一切を御子に背負わせて、御子が背負い切って下さって、身代わりに裁かれて死んで下さった。これが神様の完全に正しい判断、十字架の裁きと判断です。その裁きは、人を祈りに向かわせるのです全くの恵みによる救いを信じて、キリストの名によって、人々の救いと必要を求めるよう導くのが十字架です。それ以外の裁き、自分は祈りが聴かれる条件が足りてないと自分を裁く裁きこそ、本当に足りてない、恵みのキリストが足りない裁きであって、それは大胆に捨てるのです。大胆に恵みの座に近づくことをはばかる判断に対して、主は、サタンよ退けと言われました。そして弟子たちを招かれました。あなたは自分を捨て、わたしについて来なさい。わたしがあなたの祈りを、あなたごと背負って、わたしの名によって父に願う。だから自分は捨てなさいと。

それ以外の理由で祈りが聴かれる条件はありません。求めても与えられん条件なら、先にヤコブ書で聴いた自分のために使おうと求める動機などがありますけど、聴かれる条件はただ一つしかないのです。それは憐れみ深い天の父が、罪深い私たちを我が子とするために、三位一体の御子を人とされ、信じて御子と結ばれた私たちの求めを、愛する我が子の求めだからと、御子と共に、私たちが我が子であることを喜ばれるから。だから聴いて下さる。御子によって我が子とされたから。私たちが何かしたからではなくて、御子が!私たちを父の子とするために裁かれてくださったから。今もその名によって執り成して下さっているから。キリストの名によってキリストのものとされて、父の子とされたから。それが私たちの主イエス様の名によって、父が祈りを聴いてくださる、また大胆に恵みの座に近づいて祈れる唯一の理由です。

自分で自分を判断しなくてよい。父が私たちの信じる御子によって、あなたは我が子だと判断して、祈りを聴いて下さいます。私たちが良いキリスト者や良い信徒だから聴かれるのではない。良い信徒でないから聴かれないのでもない。そうやって自分自分になる弱く罪深い私たちを憐れみ抜かれて、100%愛して、あなたは100%父の子だと常に愛されるイエス様が良い羊飼いだから!イエス様をくださった我らの父が良い父だから!だから私たちの祈りは聴かれるのです。与えられない時にも、イエス様と一緒に忍耐して、恵みを信じて一緒に祈れる。16節の直訳は「だから憐れみを受けるため、そして良い時の助けとなる恵みを見つけるために、大胆に恵みの座に近づこう」。必ず見つけます。探しなさい。そうすれば、恵みは見つかるからです(マタイ7:7)。