使徒言行録3章1-10節、イザヤ書53章1-6節「祈りの時それは起きた」

21/5/30三位一体主日朝礼拝説教@高知東教会

使徒言行録3章1-10節、イザヤ書53章1-6節

「祈りの時それは起きた」

毎日祈っている祈り、ありますでしょうか。特に家族、知人の救いを求めて毎日祈っているけど、自分が思うようには与えられないのが多くの祈りの実際だと思います。でもむしろ、祈りの答えは私たちの思いを超える。それが御言葉の教える祈りなのです。

先週の御言葉、上の段2章42節で、ペンテコステに救われた人々が「祈ることに熱心であった」と言われていました。救われたこの人たちも、家族や知人、町の人々の救いを求めて、熱心に祈ったと思います。御心の天になるごとく、地にも、教会にも、家族にも、なさせたまえと祈ったに違いない。言い換えれば、私たちを御心のために用いて下さいと教会は祈る。献金よりも私たちを、救いのために用いたまえと。

それはイエス様が使徒言行録1章で「聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして…わたしの証人となる」と約束されたからです。人が教会を通して、キリストは本当に生きちゅうと信じるため用いられる。何故か。それが御心だからです。私とあなたが主の証人となる。これは御心ですから、主の祈りで、御心の…と私たちが祈る時、父は、うん、用いようと、祈りを聴かれます。人々の救いの御心を熱心に祈っていたその教会の代表として、ここでは、ペトロとヨハネが用いられます。

1節で言われる「午後3時の祈りの時」、神殿で生贄が捧げられていたので、エルサレム近辺の敬虔なユダヤ人たちは、その時間に神殿の境内に行って、天に昇る生贄の煙と共に、祈りを捧げたようです。

その敬虔な人たちから施しを受けるため、毎日、境内の入口に置いてもらっていた人がいた。毎日。私たちが家族のため知人の救いのために毎日祈るように、毎日。でもこの日、その毎日が終るのです。その日、ペトロとヨハネが境内への階段を上ってきたのです。

でもその日を決めたのは、ペトロたちではない。むしろ、ともすると二人は通り過ぎていたかもしれんのです。この人は、毎日ここに座っていました。ペトロたちも毎日神殿で祈っていたのです。上の段46節で「毎日ひたすら心を一つにして神殿にまいり」つまり祈っていた。でも二人がこの人の前を通り過ぎるだけの日が、既に何日もあったかもしれんのです。私たちが、言わばただ祈るだけの日々が何日もあるように。

でもこの日は違った。二人は通り過ぎないで「彼をじっと見て『私たちを見なさい』と言った」。こう言わせたのも、じっと見たのも、もし、二人に尋ねたら、ん~私たちの内に生きておられるキリストが聖霊様を通してなさったから、としか言いようがなかったと思います。これ神様やと霊的にわかる時は、確かにある。「あなたがたは力を受けて、わたしの証人となる」と主が言われた、まさにそのことが今なされゆう!と、キリストは生きておられるという業がなされる。単に言葉だけでなく、また生き方によって証しするだけでなく、私たちの思いを超えて聖霊様の力が働いて、イエス様は本当に神様ながやと、人の目が開かれる御業は起こるのです。主が生きておられるからです

人の意志や、先ずこの人をという言わば伝道計画のような思いも関係なく、主が、わたしはあなたを用いる!と選ばれた、時と人、あらゆる状況を、主は聖められ主のものとされて、用いられるからです。

なら、そのために御言葉が教える、何か私たちにできること、教会が備えられることは、あるのか。ある。それが今朝の御言葉の急所です。二人は祈りに来た。そして教会は熱心に毎日神殿で祈っていた。祈りの家である父の家を、祈りの家として、祈っていた。

主は、救いの御心を祈り求める教会を用いて、わたしは主、あなたの生きている神だと証される、教会の頭であられるからです。

いつ、どこで、誰を用いるかは、無論、主が決められます。ただし、主は、私たちがどんな思いで何を祈り求めているか、また祈ってないかと全く無関係に決められるのでは、ない。それは無視して通り過ぎてはならないことです。むしろ、私たちとの関係を心から求められる主は、その主との関係を大切にするからこそ、救いの御心を常に祈り求めている教会を、愛して御業に用いられるのです。

こう譬えてもよいでしょうか。私が美容室に行こかと、ま、行きませんが(笑)、よしここにと何回電話しても、もし自分のことで忙しゅうて私を後回しにして電話も出ん店なら、あるいは、やっと出た電話対応が悪かったら、他を探します。もし!私がその店のオーナーでなければ。

主は、神の国つまり十字架の救いのご支配を先ず求める教会を用いて御業をなされます。従順は、主に用いられる絶対条件ではないですが、私は用いられないだろう、あるいは用いられたくないというのは、人が決めることではありません。主が決められます。主が住まわれる神殿、祈りの家を清められることも、その家のオーナー、主が決められます。

ただ主が決められる時、相手を全く無視した全くのお一人様の独断で決める訳ではないのです。主は、私たちを愛して犠牲となられることを決められた神様です。その愛に、父の思いに全家族が参加して、父のお心を知る故に、用いて下さいと参加して、皆が用いられ、迷い出す羊がいないことを求められる。それが犠牲となられた羊飼いです。その愛のご支配、御国と御心を先ず求め、用いられて生きて欲しい。その福音が私の救いだと知り、それ故に、この人あの人もお救い下さいと祈り求める羊たちによって、世界に、キリストが誰かが証しされるからです。

その主の愛に従う僕として、自らを主の愛のもとに差し出す。それが具体的な形をとった一つが、祈りなのです。

私たちを、いつ、どのように誰に対して用いて、キリストは生きておられると証言されるか、それを私たちは決められませんし、ペトロが、よし、この人を立たせたら証になると決めてやったのでもありません。私たちを生きたキリストの証言者とする聖霊様の力は、ただ与えられるしかない力です。好きにできない。できたらいいのに、好きにしたいと罪人は願う。でもだからこそ、人間の力も能力も証言しない、キリストは生きておられると信じる他ない力で、主は罪人を救われるのです。

その自由に用いられない力を、けれど、私たちの内に聖霊様によって生きて働かれる主イエス・キリストが、罪人を救うために死なれるほどの愛の自由によって用いられるなら、その力は、用いられます。教会が用いるのではない。教会は用いられるのです!その私たちに、求めなさい、そうすれば与えられると約束された主が、そうだ、わたしは、そのわたしの約束と力を信じて、救いの御心を求めて祈るあなたを用いて、わたしが十字架の救いを、今与えると決められたら、その神様の力を、祈る教会に与えられたら、教会はただその御力によってのみ、キリストの救いの御業となる。

だからその御力の下に身を置いて、いつ用いられ、御業がなされても良いように、教会は、絶えず祈って、毎日祈って、主よ、御心をなしたまえと、救いの御心に献身するのです。いつ、どのように祈りが聴かれて、どのように用いられるかはわからずとも、主よ、私たちがあなたの証人となるとの約束を成して下さい、用いて下さいと、祈り、仕える。私たちがやはり自由にできない、主から与えられた家族、隣人のため、この人をお救い下さいと御心を求める祈りを、あきらめない。主がその私たち、主の祈る教会を用いられ、救いの御業をなさるからです。