ヨハネによる福音書20章1-10節、ヨブ記19章23-27節「イースターの中に入る」

21/4/4復活祭召天者記念礼拝説教@高知東教会

ヨハネによる福音書20章1-10節、ヨブ記19章23-27節

「イースターの中に入る」

キリストの復活を祝う今朝、私たちは先に天に召された兄弟姉妹たちもまた、復活の約束の中に憩うておられることを思い、召天者記念礼拝を、主に捧げています。一人一人の葬儀の中で、イエス様が復活を約束された御言葉を、必ず読みます。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は死んでも生きる…このことを信じるか。」(11:25f)

今朝の御言葉の中でペトロともう一人の弟子、これはヨハネ自身のことを遠慮してこう言うのですが、この二人が、イエス様の空っぽの墓の中に入って信じた。これも、ああイエス様は確かに、わたしが復活だとおっしゃっていたけど、本当に本当やったがやと、それが詳しくはどういうことか、未だ理解はしていなかったけど、本当にイエス様は復活の救い主ながやと信じた。これは、イエス様が前々からそうおっしゃってなかったら、信じられなかったことである。ここが急所です。

二人は何を信じたのか。今朝、主を礼拝する私たちは、何を信じたから礼拝しているのか。単に何かをじゃないでしょう。むしろ誰かを。神様を。私たちは神様の言葉を聴いて、何のことやお?と理解できていたわけではなかったけれど、ある時、その言葉が現実のこととして心に迫り、本当やと、その言葉を私たちのために語られた神様を信じて、アーメンと礼拝するのです。

私が30年前、礼拝に出席し始めたのは、聖書の言葉「神は愛です」という言葉に惹かれ、そしてその愛を信じ生かされているキリスト者たちの姿に惹かれたからです。外から見るだけでなく、一緒に中に入って、本当に良かったです。その後ろから理解はついて来ます。今もわからんこと一杯あります。まるで妻のことを理解できてないように。でも信じてはいるのです。どうも私と一緒に生きていきたいらしい。確かに結婚式でそう言うたけど、本当のようだと、信じているし、信じなかったら一緒には生きていけないのが、相手を信じて、共に生きるという人生、命そのものだと思うのです。イエス様が「わたしは復活であり、いのちである」と言われたのも、イエス様が共に生きて下さるから、私たちも共に生きるのです。神様の愛と救いを信じて、神様を礼拝する人生を、共に生きられる。単に自分の人生を生きるために相手が共にいることを求めるご利益宗教のような生き方は、神様との生活も、それは違うと、皆きっと知っているのです。理解も、きっとしている。それは悪だと。でもその悪が自分の中にもあって、自分のために相手を利用することがあると知っているのも悲しい現実ではないでしょうか。

あるいはもっと悪い事に、相手も同じように自分を利用しようという動機で言っているだけで、この言葉を信じたら馬鹿を見ることになる、だって我がままで言いゆうがやき、と思っている自分を信じて、相手を信じられない悲しみも、たぶん私たちは知っているのです。

相手の言うことを信じる。それはチャレンジです。特に自分と理解が違う時、それは、自分が間違っているのではないかと、相手ではなくて自分を否定することをチャレンジされるからです。自分への攻撃だと感じて、足が止まって、相手の言葉の中へ、その真実を知るために入っていけない恐れが生じる。それは、今朝の御言葉でのマグダラのマリアとヨハネだけではないでしょう。主の言葉よりも、自分の理解を信じて、体が盗まれた!とか、いや盗まれてはないけど、でも復活なんて…と、自分を信じて、中に入れない。

ただペトロは違った。ペトロは三日前、イエス様を否定したのです。人々の前で、あんな人は知らんと。主の前でも、知らん、俺は知らんと否定した。その前日には、私は死んでもお供しますと言ったのに、その信じていた自分が、俺の言うことが正しいと思う自分が、自分によって否定されてしまった。だからペトロは、もうそんな自分を信じて自分を守るのじゃなく、イエス様が「わたしは復活であり、いのちである」と言われた御言葉の真実の中、復活の真実の中へと、体ごと入っていくのです。自分の目でイエス様の復活の約束の真実を見て、「あなたはこれを信じるか」と言われたイエス様をこそ信じるために、信じてイエス様によって救われるために、ペトロは約束の中に入っていった。それを見たヨハネも、後から中に入っていって、一緒に見て、信じた。

それが教会の恵みながやと改めて思います。私も後から入って行った一人として、ペトロが私の前にいて良かったと思います。あるいは私を見て、ペトロがおって良かったと思われる方もきっとおられるのです。天に召された兄弟姉妹たちにも、先に中に入っておったペトロがおり、兄弟姉妹たち自身、後から入る者たちのペトロとなって、今まさに復活の約束に包まれて憩うておられる。それは自分でそう信じたいからではないのです。そんなペトロやヨハネやマリアを赦し愛されて一切を包み込んで復活のいのちに新しく生かされる神様の約束だから信じられる。信じて馬鹿を見ず、愛を見る約束の中に、だから入ってよいのです。