21/3/28棕櫚の主日朝礼拝説教@高知東教会
ペトロの手紙一5章12-14節、詩編24篇
「真の恵みの中に立って」
「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」。これは恵みによってのみ自分も立つことができた、ペトロの証しであると同時に、皆への励ましでもある、恵みの命令の言葉です。私は命令を受けている!という事実それ自体に、慰められ、励まされる命令、恵みの命令があるのです。
命令と聴くと身構えてしまうかもしれませんが、この御言葉が書かれたギリシャ語の文法、命令法を学ぶと、イメージが変わると思います。少しお勉強しますが、聖書のギリシャ語には2つの命令形があります。まず現在命令。しなさいと言われたら、ずっとする。し続ける。例えばアンパンマンにジャムおじさんが命じる。お腹が空いちゅう人に、顔を食べさせちゃってね。はい!それ以来、ずっとそうしているのが、現在命令。もう一つが、先の「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」に用いられた過去(アオリスト)の命令形です。過去の命令形?と日本人はとまどいますが、過去に遡ってしなさいではない。できませんから。だから敢えて言うなら、過去に完了した出来事のゆえ、一度限り直ちにしなさいという命令。例えば、ご飯できたよ、おいで。そのできたご飯ゆえ、一度限り直ちに行く。それが「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい」直訳は「この恵みの中へ立ちなさい」という恵みの命令です。
この恵みの中へ一度限り直ちに、はいと立ちなさい。何故か。ご飯ができたよと同じで、神の国は近づいた、キリストが恵みの救いをもってあなたのもとにもう来られたから!だからこの恵みの内に立ちなさい。もう来たき。恵みがあるき!だから、立てる。
踏み留まりなさいだと、ずっと立ち続けてる感がありますが、むしろ毎日毎日、新しい日を迎えるごとに、イエス様、今日も全くの恵みゆえ私と共にいて下さって、ありがとうございます、よろしくお願いいたしますと、自分には全く根拠を持たない、ただ神様の愛にだけ根拠を持つキリストの恵みに!一度限り直ちに、はいと立つ。毎日。先週ご飯食べたき、今日はえいとはならんように、イエス様は毎日おいでと呼んで下さり、わたしの恵みに立ちなさいと命じて下さる。だから、毎日、恵みに立てる。
これが恵みの命令です。ペトロは、この恵みを「これこそ神様の真の恵みである」と手紙全体で証しして、励ましてきたのです。12節2行目の「勧告をし」は「励まし」あるいは「慰め」という言葉です。恵みを証しすることによって、励まし、慰める。私たちも良く知っていることではないでしょうか。誰かを励まし慰める時、単に知識を語るのでも、頑張れと命令するだけでもなくて、自分が体験した神様の恵み、実際に神様に助けられた慰めを証しすることで、聴く人が、ならば私も大丈夫だ!と、慰められ励まされることが多い。これは急所だと思うのです。この手紙から説教しながら、福音書が語るペトロの恵みの体験を幾つも証ししてきました。私自身、説教する時に、単なる知識で終わることは言わんように心掛けています。証しにならんからです。
例えばペトロが「わたしの子マルコ」と呼んでいるのも、福音書を記したマルコらしい、と説明した所で、単に知識を得て満足するのでなければ、それと私と何の関係があるが?となるのではないか。でも自分より年がずっと若くて「わが子」と呼べるほど愛する仲間がいる喜びは、わかるんじゃないでしょうか。それが教会なのです。もし既にこの時、マルコの福音書が教会で読まれておったら、あのマルコさんからもよろしくやって、と教会が一層励まされるだろうと願ったろうと思います。ペトロが一人で頑張るのじゃない。教会には恵みの仲間がおるんです。この手紙をギリシャ語で代筆したシルワノを「忠実な兄弟と認めている」と紹介するのも「共に選ばれてバビロンにいる人々」からの挨拶を記すのも、恵みに立つ教会を証ししているのです。バビロンとは、おそらく当時教会への迫害を強め始めていた、ローマ皇帝ネロが住む首都ローマです。そのローマでペトロが自分たちの危険をも顧みず伝道しておったことがわからんよう言い換えたのだろうと言われます。でも教会の人々はわかった。何が分かったか。あのローマで!それでもキリストの恵みに立って、まことの神様の恵みに立って教会生活をしている、あのローマ教会の人々から、よろしくと挨拶が来た。これは祈らないかんと自分のこととして思ったんじゃないか。そして自分たちもまた、神様の恵みのみによって立とう、そうだ、これが神様の救い、キリストの恵みを世に証しする教会の唯一の立ち方だと、励まされたと思うのです。
御言葉に従うというのは、単なる知識や命令を受けて、じゃあ従うか従わんか、自分でどっちかを選ぶというのではありません。知識があれば選べるのか。命令だから従うのか。私たちはそんなロボットのような存在ではないでしょう。知識があり、主のご命令だと知っておっても、弱いし、信じられないし、なのに自分を信じては裏切られるを繰返す、ロボットにはない、罪に振り回される人間。そのことをペトロは自分のこととして知っていて、その罪に勝つ神様の恵みを証しするのです。
人間はどうしても自分中心に考える罪深さの故、恵みさえ、真実ではない恵みを勝手にイメージする弱さがある。例えばご利益のイメージを恵みと呼んで、つまり神様が自分にしてくれることだけ求めて、自分は変わらなくてよいという都合のよい嘘の恵み。先の譬えで言えば、ご飯まだかえと求めるだけで、それを当たり前と思う自分自分の態度。また自分は従っているから、ご飯に呼ばれるんだ、救われるんだと、自分に立つ態度も、恵みは勝ち取れるものだと捻じ曲げてしまいます。ペトロも、イエス様から聴いて、知識はあった。知識がいらんわけではない。でもその知識がキリストの恵みと結びついているか。そうでない知識が何をしてくれたか。敵を愛しなさい。迫害する者のために、祝福を祈りなさい。ペトロも知ってはいた。でも、できなかった。十字架に向かわれるイエス様に、ご一緒に死んでもよい覚悟ですと断言もした。でも、できなかった。自分に裏切られ、イエス様をも裏切って、私はあんな人知らないと逃げ出して、ペトロは、自分にはもう立てなくなった。
そのペトロが、励ましと慰めの証しをするのです。あなたも立てる。そんな罪深く弱い私たちを、キリストは呼んでおられるのだ。わたしのもとに来なさいと。ご飯できたき、償いは終わったき、あなたの罪は赦されて、あなたは神の子として生まれ変わって、わたしと結ばれて神の家族の一員となるがやき、さあおいで、この神様の真実の恵みの内に、あなたも立ちなさい!と、主の恵みに立たせて下さるからと証しする。私たちに全く由来せず、全く私たちに根拠を持たない、神様の圧倒的な愛の勝利の十字架と復活を根拠とした、まことの恵みに、神様は私たちを呼んでおられるからと証しするのです。ペトロ自身、そこに立つ恵みを、倒れても何度でも証しする。あなたも立つのだと。キリストによって立つことのできる神様の真実の恵みに立て!と、証しするのです。
手紙の最後にペトロが祈りました「平和があるように」という祝福。これも、復活の主が弟子たちに与えた祝福です。ペトロ自身、これによって深く慰められ、力を与えられていた祝福を、教会の皆に、キリストに結ばれた一同すべてに与えます。何か正しいことをしているからではない、何か悪いことをしたから受けられないのでもない。ただ恵みによって、あなたも十字架の赦しを信じて、復活のキリストに身を寄せて、キリストを、あなたの主と信じ洗礼を受けた、キリストに結ばれた恵みの仲間だ。さあ祝福を受けなさいと、永遠の三位一体の御子、主イエス・キリストご自身の祝福を与えます。あなたがたに平安があるようにと。これが恵みによってのみ世を救われる、キリストの証しだからです。