ペトロの手紙一5章8-9節、箴言27章17節「仲間と共に立ち続ける」

21/3/14受難節第四主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一5章8-9節、箴言27章17節

「仲間と共に立ち続ける」

主が十字架で死なれる前の晩、イエス様を捕らえにきた人々にペトロが切りかかった場面があります。イエス様は「やめなさい」と止めて、ペトロに切られた人を癒されました。ペトロは、何で?と思ったかもしれません。でもこの手紙を書いたペトロにそのことを尋ねたら、きっとこう言うと思います。その人たちが敵ではなく、敵は別にいるからと。迫害の危機にある教会にペトロは明確に伝えるのです。

敵を間違えやすい。いや、敵が見えていない。見えてないから、あの人、この人がいなければと敵意を持つ。だからでしょう。「身を慎んで、目を覚ましていなさい」と命じられます。

前の頁でも、ちょっとお開き頂けますでしょうか。左の頁上4章7節の2行目でも「身を慎んで、よく祈りなさい」と命じられます。直訳は「頭が酒で麻痺してない状態でいなさい、祈るため」。でないと酔たんぼが俺は大丈夫と、大丈夫じゃないのに麻痺させられて誤った判断と行動をするように、麻痺して、私は祈らんでも大丈夫と思う、誤った強さの誘惑に、負けるからです。私には敵も自分も見えていると、誤って思う誘惑、ないでしょうか。先の、ペトロが切りつける場面の少し前、主が「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われた時に(マルコ14:27)、ペトロは「皆がつまずいても私はつまずきません」と言い張ります。私は大丈夫と。この場面、ルカによる福音書は、そのペトロのために祈られた主の御言葉を記すのです。これもお開き頂けますでしょうか。

154頁下段22章31,32節「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

シモン、シモンと、イエス様はペトロが家族から呼ばれる名で二度!呼びます。呼ばないかんかったほど、ペトロの頭の中が自分自分で一杯になっておったんじゃないか。同じルカで、主が名前を二回呼ぶ人に、マルタがいます。お開きにならなくて構いませんが10章です。皆の世話をマルタ一人がしておって、妹はイエス様の御言葉を聴くだけで、何も手伝わん。なのでムカッとして、イエス様に「私だけに世話をさせて、何ともお思いになりませんか。」そのマルタに主は「マルタ、マルタ」。

自分のことで頭が一杯になり、あるいは頭の中に自分のストーリーが出来上がっていること、ないでしょうか。この状況はこういう状況で、この人は私の敵なのに、神様は私のことを何ともお思いになってない、心にかけて下さってない!だってそうやか、私にはそうしか思えんと、自己完結して人の話も御言葉も聴けんなる時に「マルタ、マルタ」と、十字架の主が心配して、マルタを心にかけて、呼びかけて下さる。

同じように主は、シモン、シモン。あなたは大丈夫じゃない。サタンのふるいにかけられて、神様の愛も救いも正義も約束も、信じられなくなるような心の状態へと、ふるいから落ちる小さな麦粒のように落ちていく。しかし、わたしはあなたの信仰が無くならんように祈ったから!あなたは恵みによって立ち直るから。そしたら同じ苦しみに遭っている兄弟たちを助けなさい。自分はもう駄目だとか、神様から見捨てられたように感じる苦しみを、あなたはわかるだろう。その弱っている時に、何が信仰を助けるか。自分は強く信じているからという自分信仰が何の役にも立たんことを思い知る所で、その人を助けるのは、あなたのために、わたしが祈っているという恵みの事実だろう。この弱い私には、しかしその私を愛されてやまない救い主がおられると。どんな時にも私のことを心にかけて愛し抜いて下さっている、十字架の主がおられると。この恵みのキリスト信仰こそが、あなたを確かに立ち上がらせる。この恵みの信仰を、兄弟姉妹たちに伝えなさい。大丈夫、神様があなたを愛されて、完全な恵みとして御子をくださったのだからと。

そのペトロ自身を立ち上がらせた、恵みの信仰の御言葉を、私たちは共に聴いているのです。またちょっと次週の御言葉に入りましたが。

改めて8節に戻ります。「目を覚ましていなさい」。この言葉、もとは軍隊で、敵の攻撃や侵入をいち早く見つけ抵抗するため「目を覚まして見張っていなさい」と言われた言葉です。何故か。敵がいるからです。隠れて、隙あらば弱い所を狙ってくる敵がいる。「誰かを食い尽くそう」と訳された言葉は「誰かを飲み込む」です。蛇が獲物を丸呑みするように、自分たちの闇に飲み込むために、見えない本当の敵が狙っている。

では「ほえたける獅子のように」と言ったのは何故か。圧倒的な力の差を強調するためでしょう。皆さんは、ライオンに勝てると思うでしょうか。こっちが10人おっても。50人おっても。思わんのじゃないでしょうか。なのに、この獅子のような敵の存在について、考えることさえ世の風潮に麻痺させられ、自分は大丈夫と思いやすくはないか。

けれどその悪魔と自分の偽りの大丈夫に、惨めに負けた自分の現実を泣くほど知っちょったペトロは「身を慎んで目を覚ましていなさい」と訴えるのです。じゃないと負けるき。相手は本当に攻撃をしかけてくるき。目を覚ましていなさいと。何故なら、目を覚まして油断してなくても、敵の攻撃はあるからです。どこを狙ってくるか。私たちが信仰から離れることを目標に狙ってきます。例えば先に言ったように、やはり私たちはどこかで自分のストーリーを信仰に押し付けているところがあると思うのです。自分はこうしているから、こうなるはずだ。神様もこうしてくれるはずだと。でもその思い通りにならない時に、不満になり、悪魔につけ込まれて、もうえいと、あるいは神様からイエス様から教会から、離れようとする弱さが誰にでもあると思うのです。

その誘惑と試練の中で助けになるのは、その私たちのために祈っている仲間がいることです。信仰は決してお一人様の信仰ではないことを、ペトロのように痛い思いをして知ることが私たちにもある。でもだからこそ私たちは、一人で苦しんでいる兄弟姉妹の信仰が無くならないように、決して見捨てることも見放すこともない主イエス・キリストの恵みを信じて、祈るのでしょう。その祈りを、私たちがお一人様になることが決してないように、御子を神我らと共にますインマヌエルの救い主として与えて下さった天の父が、また教会を与えて下さった天の父が、聴かれないはずはないのです。イエス様がペトロのために祈って下さった祈りを、そのイエス様の名によって、イエス様のように、自分の痛みとして祈る祈りは、十字架の主の御心そのものだからです。

教会は知っています。私たちは弱いことを。自分の力では世の誘惑や悪魔の攻撃に勝てないことを。しかし私たちにはその弱さのただ中で、祈り合う仲間がいることを知っている。苦しみの時にこそ、その恵みが与えられていることが、どんなに力になるかを知っている。だからこそ弱さの中にいる兄弟姉妹たちのために、祈るのです。知っているから。それが苦しいと。そしてその私たちを神様は心にかけていてくださっていることを、自分のこととして知っているから、その神様を信じているから、苦しみの中でも一緒に立つことができる。私たちにはキリストがおられるから。決して私たちから離れることのない主がおられるから。だから私たちも神様から離れない。教会からも離れない。惑わすサタンよ、離れていけと、主キリストの名によって祈ることが許されている。それが私たちに恵みとして与えられている、救いの信仰、キリスト信仰であるからです。この信仰に支えられ、倒れても立ち上がり続ける教会を通して、私たちは十字架の神様の勝利と救いを証するのです。