ペトロの手紙一5章5-7節、イザヤ書2章10-22節「高慢への最大抵抗勢力」

21/3/7受難節第三主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一5章5-7節、イザヤ書2章10-22節

「高慢への最大抵抗勢力」

先週と同じ御言葉から共に聴きます。ただし心の焦点、フォーカスをギュッと絞って、ペトロが引用した鍵括弧の御言葉に集中します。先週読みました箴言3章の引用ですが、この引用、実はこのペトロの手紙一の前に置かれたヤコブの手紙にも引かれている御言葉です。と言うより手紙が書かれた、おそらくの順番から推測すると、ペトロは先に書かれ広く教会で読まれていたヤコブの手紙4章から、これを引用したのかもしれません。家に帰られた後で、そこをお読み頂けたらと思いますが、「神は、高慢な者を敵とし」。直訳は「高慢な者に抵抗なさる」。これを読んだペトロがハッと襟を正した姿を思います。神様が高慢な者を敵として、抵抗なさる。御子を十字架につけられた神様がですよ。十字架の神様から、前に立つなと退けられる。相当ショッキングな御言葉としてペトロの心に刻みつけられたのではなかったか。またこれを、全ての人は心に刻まなければならないと、自分もまた手紙に書くほどですから、これは言わば信仰のイロハ、信仰がいつでもここに戻って来ないかん、そうでないと信仰も生活もおかしくなっていく基礎中の基礎であると、ペトロは何度もこれを語ったのじゃないかと思います。

このすぐ後9節で「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」と言います。悪魔、サタンに対する抵抗については、先のヤコブの手紙でも、神様ご自身による抵抗とセットで命じられる信仰のイロハです。来週の説教を先取るようですが、悪魔に抵抗することと、自分の高慢に抵抗することは切り離せない。そのことをペトロは、まさに信仰の基礎中の基礎として深く心に刻まれる体験をさせられた。イエス様が救い主は多くの苦しみを受けて殺されて死ななければならないと教えられた時です。教えられた。これがキリスト信仰だと。救い主の十字架の死がなければ人は救われないのだと、一番大事な信仰のイロハを教えられた。そのイエス様に対して、ペトロは、いや、それは違うでしょうと上から反対を唱えて、イエス様を逆に教えようとした。そしてイエス様からこう叱られた。「引き下がれ、サタン。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。その時にペトロは、イエス様から何を叱られたのか、自分の何がいかんのか、わからんかったかもしれません。でも後でわかったのです。自分がその時どんな高慢な顔になっておったか。きっと私たちも、後でわかることが多いのです。十字架の神様のことを思わず、思いが自分の正しさで一杯になっている時、悪魔のような顔になっていることを、神様から、その顔はダメだ!引き下がれ、サタン、それは絶対にいかん!と退けられる体験をして、やっと、ごめんなさいと、神様のお気持がわかる。どんなに神様に心配をかけて、嫌な思いをさせたか。十字架で主が私の何を引き受けて苦しんで死なれたかを。

ペトロが全ての人に「互いに謙遜を身に着けなさい」と励ますのは、何故なのか。それが素晴らしいからではないのです。キリスト者らしい人格の徳であるからという理由でもない。謙遜それ自体がどうのという理由では一切ない。それが神様との関係に、なくてはならんからです。神様と共に歩むには、神様を信頼して、その恵みと正義に頼る生き方でなかったら、別に神様の正しさやのうてもえいやかと、高慢になって、それで神様との関係も、人との関係も壊してしまうからです。共に歩めなくなるからです。えいやか共に歩まんでもと、自分を高くする人間の高慢に対して、十字架の神様は、いかん!と敵対される。「神は高慢な者を敵とし」と訳された言葉。これはある国に別の国が攻め込んでくる時、その敵の攻撃に抗戦し抵抗するために軍隊を集結するという言葉です。下の段で「悪魔に抵抗しなさい」と命じる時には「抗って立て」という言葉ですが、神様が、私たちの高慢に抵抗される時には、言わば全勢力で私たちの高慢に立ち向かわれて、もしも本気で神様が反撃をされたのなら一瞬で滅ぼし尽くされるほどの最大抵抗勢力をもって、いかん!と抵抗される。そこまで神様は、私たちが神様と共に生きる恵みの正義のいのちを求めて下さり、心から私たちを愛し求めておられるのだから、だから、その神様を選んで、自分を選ばない、謙遜を身に着けなさいとペトロは言ったのです。それが理由なのです。御子を私たちの身代わりに退けられた父は、あなたを退けたいなどと決して思われてないから。でも高慢が、私たちを悪魔的な道に迷わせて、自分が正しい、自分が自分がと高ぶらせるから、だから神様に抵抗するんじゃなくて、サタンに抵抗しなさい。神様は、あなたと常に共に生きる幸せを、本気で望んでおられて、その恵みに生きる謙遜の道に、十字架の御子によって導いておられるのだから、だから「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら神様は高慢な者には本気で抗われるけど、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。そうやってペトロは自らもつちかった信仰のイロハを皆に教える。このために主は死なれたから。だから私たちは見捨てられないのだからと、十字架の謙遜を知る幸いを、皆と分かち合うのです。