ペトロの手紙一5章1-4節、エレミヤ書23章1-6節「権威を振り回さない主」

21/2/21受難節第一主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一5章1-4節、エレミヤ書23章1-6節

「権威を振り回さない主」

「しぼむことのない栄冠」。しぼまないというのですから月桂冠ならぬ花で編んだ冠、なのに、しぼまない栄冠を想像してもよいでしょうか。先日ユースの会でドライフラワーを、乾燥剤が詰まった容器で作る実験をしました。ガーベラをその容器に入れて数日後、容器を見たら、白いフワフワが見えた。うわ、すごいカビ生えたと思ったら、青年が何故か後からタンポポの綿毛を入れていた(笑)。大変意外で驚きましたけど、この栄冠をイエス様の手から受ける時も、こんな私がもったいないと、きっと驚きの恵みに包まれて栄冠を受けるのではないかと思います。

この世で受ける称賛や喜びは、儚い程に、しぼみます。でも、決して「しぼむことのない栄冠」。これ、長老たちだけが受けるのでしょうか。無論そうではありません。すぐ後の5節で「同じように」と長老でない人へも勧められるように、誰もがこの栄冠へと招かれています。

ちなみに、ここで言う「長老」は、私たちの教会で言う役職としての長老というより、むしろ信仰の成長した者として、教会の指導的立場にあった人々と言ったほうが、わかり良いと思います。つまり、ああ私はこの御言葉の対象ではないな、と言える人はおらんということです。

しかもこの立場の一番の急所は「群れの模範」となることですから、羊の群れでイメージするなら、その模範たる羊たちの後には、もちろん他の羊たちが続くのです。模範だけ独走する群れ(笑)。あかんでしょ。皆、その後に続くのです。続きたくもなる模範。何より大事なのは、その模範の羊たちが、一番先頭で導かれる大牧者イエス様の模範にお従いして、それで皆もお従いして、やがてゴールに着く。着く順は必ずしも年齢順でなくとも、その群れは皆、ゴールに着くのです

それをペトロは1節の2行目で「やがて現れる栄光にあずかる」と言いました。これは前の頁の下の段4章13節でも、こう言った。3行目「キリストの栄光が現れるとき」。その時、すなわち最後の審判の時に、ただ罪の裁きだけがあるのではない。その時に、キリストのため、福音のために苦しんだ全ての主の羊たちは、ここでペトロが約束するように「しぼむことのない栄冠を」大牧者キリストご自身から受けることになる。そのゴールを目指して、私たち、高知東教会の主の群れも、一緒に歩んでいるのだと御言葉は告げるのです。

「しぼまない」というのは、無効にならないとも言えます。先週説教で、よく言われる天秤の裁きで、善に傾いたら悪がチャラになるという被害者を無視した考えは、全ての行いに正しく報われる神様の正義ではないと申しましたが、それと同じ正義がここでも現れます。キリストのため、福音のために、つまりキリストがそれほどまで苦しまれた人々の救いのためという神様の御心を、自分の心として苦しんだ主の羊には、その苦しみに、主が必ず報いて下さるからです。もし、いやでも自分は罪を犯してそれを台無しにしたと思っても、天にはその人が福音のために捧げた犠牲に報いる、しぼまない大切に保管されている栄冠がある。この人々の救いのためにと、キリストの名によって愛の苦しみを耐えた一人一人のため、神様が大切に保管されている決してしぼむことのない栄冠が天にはあるのです。

だからペトロは冒頭で「私は長老の一人として、またキリストの受難・苦しみの証人として、そしてやがて現れる栄光にあずかる者として」と皆に励ましを語るのです。

つまりキリストの苦しみを、主が十字架で苦しまれたのは何故かを、私は知っている。それは私たち罪人が、その罪をただ主の犠牲のゆえに償われ、神様の憐れみの勝利に包み込まれて、私たちが救われるため、いや、ただ救われるためでは終わらずに!この神様の愛は、この私たちを、キリストの栄光の苦しみにあずかる者、人々の救いのために苦しむ主イエス・キリストの栄光の仲間とさえされる!その驚きを自分のこととして知っているペトロが励ますのです。きっとペトロはこのイエス様の約束を思い出しておったんじゃないでしょうか。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」(マタイ5:11-12)。あなたは、わたしのため、福音のために苦しみを共にしてくれた。この人の救いのために苦しんでくれた。よくやったと。この栄冠はしぼまない。この約束を、三度イエス様を知らないと否定したペトロが保証するのです。しぼまない!と。

そして復活されたイエス様から、あのヨハネ福音書21章で、ペトロは三度「わたしの羊の世話をしなさい」、牧しなさいと命じられた。今朝の御言葉の冒頭で「わたしは長老の一人として」と、自分を紹介する所以でしょう。苦しみを前に主を否定して逃げ出したペトロが、それでも、いや、だからこそ主から「わたしの羊の世話をしなさい」と長老としての働きを命じられた。どんな世話を、ペトロはイエス様から受けたか、痛いほど知っているからでしょう。赦され憐れまれ、犠牲を払ってでも受け入れられて、主の羊として愛され導かれ、決して見捨てられない。それが主の、私への牧会であったし、また全ての主の羊たちへの牧会であると知っているから、だからこそペトロは牧会の第一原則をこう告げるのです。「群れの模範になりなさい。」

群れの模範。羊です。群れていなければ迷ってしまう弱い羊。誰かを食い物にしてでも生き残る強い狼じゃない、神様の羊の群れを牧する、羊飼いの業は、先ず何よりも、十字架の憐れみ深い主に牧されている羊としての模範であること。しかも主の羊の生き方はこれだと、皆に見てもらい、そうだ、あれは私の生き方の模範だと、私は神様の羊として、このように生きればよいのだと、共に主の救いの憐れみに歩めるように導く。それには先ず自分が羊飼いの憐れみの福音を聴いて歩むのです。主の憐れみに生かされる平安を知る羊だけが、他の羊にも、この喜びを知ってほしいと分かち合えるからです。共に主の憐れみに生きる道を、たとえそれで自分が苦しむことになっても、それでも、もしそれでこの人が、十字架の救いにあずかるのなら、キリストの福音の仲間になるのならと、主よ憐れんで下さい、キリストよ憐れんで下さいと、弱さの中でこそ十字架の愛の力を知って、その憐れみに生かされる。主の憐れみがなかったら、私も生きていけないと知る者だけが、その憐れみによる主の牧会を、人とも分かち合えるからです。弱さの故に迷いそうな羊とも、強さの故に迷いそうな羊とも、更には主が「わたしにはこの囲いに入ってない他の羊たちもいる。その羊たちをも導かなくてはならない」と言われた(ヨハネ10:16)その羊たちとも、主が命を捨てて導かれる全ての羊たちとこう分かち合える。私たちにはこのキリストの憐れみと赦しが必要です、主があなたと共におられると、一緒にキリストの前に祈ることができる、その人は、先ず誰よりもその十字架の主の憐れみに生かされている羊に他ならない。それが主イエス・キリストの羊の群れの模範です。

そうした模範であればこそ、具体的な生き方の模範ともなり得ます。私たちは、どのような信仰と態度で生活をするのか。神様のこと、人のこと、自分のことを、どのように考え、またそれ故に、どのような態度で神様に向き合い、人と向き合い、自分の人生と向き合えばよいのか。何を中心に、何を土台とし、何ゆえに安心して、何を愛して生きればよいのか。何のためなら、苦しむことさえできるのか。キリストの救いの喜びの栄光のためなら。そこに、決してしぼまない人生もあるのです。