ペトロの手紙一4章17-19節、箴言11章31節「口だけではない説得を」

21/2/14主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章17-19節、箴言11章31節

「口だけではない説得を」

まず神の家から、つまり教会から、神様は罪の裁きを始められます。愛の正義の神様に、仲間びいき、えこひいき等はありえません。

いやむしろ、どうして教会から裁きが始まるか?が重要です。裁きはあるという事実に、私たちから先ず立てるようにでしょう。罪の裁きを軽んじた口だけの信仰は、人々への証しにならんからです。

罪の裁きを軽んじない。それは単に自分が裁きを受けるだけでなく、この人あの人も裁きを受けることになる。その厳粛な事実の前に、だからこそ、その裁きを十字架で受けられたキリストのお姿と憐れみを常に忘れないで生きるということでしょう。裁き主であられるが故にこそ、救い主となられたキリストの前に生きる。また、そのために御子を与えて下さった父の前に、その父の思いを知る父の子として、イエス様の名によって、御子と一緒に、父よと呼んで、父の御心に生きる。それが、この手紙全編を通じて教えられてきた「神の御心」だからです。

19節「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい。」

「善い行い」とは何か。何故、善い行いをするのか。自分のためか。裁かれないためか。そうではないでしょう。前の頁に再度めくって右頁下段3章17節18節でも「神の御心による」「善を行って」の苦しみが語られました。そして「キリストも、罪のために」「正しくない者たちのために苦しまれたのです」と、この「善い行い」とは人々の救いのためのキリストの苦しみの仲間となること以外の何であろうかと繰返し説得されてきました。キリストの救いの苦しみを担い証しする教会の福音は、口だけではないと心が説得されて、皆に救われてほしいからです。

その思いが今日の17節の3行目で切々と訴えられます。直訳すると「神様の福音の説得を拒む人々の行く末は、どうなるのか」。自分のことよりも、福音の説得を拒む人の行く末を案じればこそ、19節で「だから…善い行いをし続けて」と励まされる。人々の救いのために苦しまれたキリストの苦しみの仲間となって「真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。くじけないでほしいということでしょう。「愛は決して滅びない」というコリント書の御言葉を思い出す方もおられるでしょうか。人間の思いはくじける。なのにその折れた心の中に尚どうしても無くならない思いが残る。そのことを思うから苦しいのに、なのに残る滅びない思いがある。創造主の十字架の愛が残る。「神様の福音の説得を拒む人々の行く末は、どうなるのか」。これはペトロだけの思いではないでしょう。口だけの信仰に陥りやすい弱さの中で、それでもこの思いが残るから、やっぱり口だけはいかんと、説得されるのでしょう。

ペトロは18節で、先に読みました旧約聖書箴言の御言葉を引用して、この思いが、どこから出たかを強調します。先の聖書朗読はヘブライ語からの日本語訳ですが、ペトロが引用した18節は、当時ヘブライ語から翻訳されて用いられていたギリシャ語訳聖書からの引用です。そのせいで少し表現が変わっていますが、もとのヘブライ語の箴言を直訳するとこうなります。「もし義人が地上で報いを受けるのであれば、まして神様を畏れない者、罪人はどれだけそうであろうか。」

「報いを受けるのであれば」という言葉を、ギリシャ語では「やっと救われるのなら」と訳した。何故か。いかに神様の正義を重んじる義人であっても、自分の義、自分の正しさによって救われるのではないからでしょう。義人も罪の報いは受けるのです。それこそむしろ当然です。

他の宗教や、無宗教だけど天国をイメージする人がよく用いる、人生で行った善と悪とを天秤にかけて、どっちに傾くかで行く先が決まるという裁きがあります。しかしです。人間を創られた、そしてその人間に正義を定められた創造主なる神様は、人を天秤にかけられることはありません。何故なら、いかんことはいかん。それが正義だからです。善に傾いたき悪がチャラになる?そんな裁き、特に罪の被害者は、バカにするなと思わんでしょうか。被害者がバカを見る個人中心で自己中心の、その人のことだけで終始する天秤は、その罪の被害者をも愛すべき人として創られた創造主の正義ではありません。被害者の正義が奪われた悲しみと怒り、痛みと苦しみと絶望と喪失を、神様は無視されません。裁きも善悪の判断も自分が基準で曖昧な人間が、天秤と弁解を持ち出して俺は私はと自分のことを考える時、神様は、被害者から奪われ、えぐり取られ、代わりに毒を注入されて苦しんだ被害者の故に、その悪に報いがなされない正義は正義ではありえない、被害者を無視して自分を軸にする善悪の天秤など、被害者をバカにするなと一掃される。そして義人であろうと誰であろうと、その人が行った一つ一つの行いに対して、あなたの行ったこの行いが受ける報いはこれであると、裁きの座において真実の正義を明らかにされるのです。

ならば、この正義の神様から、わたしは主、あなたの神、あなたにはわたしをおいて他に神があるはずがないだろう、あなたはわたしのものだろうと呼びかけられて、はい、あなたが私の造り主、裁き主、そして救い主である私の神様ですと告白し生きる義人、18節で「正しい人」と訳された義人であっても、直接間接の被害者の叫びを、ないことにして救われるはずは決してありません。報いは必ずあるからです。だから、箴言をギリシャ語に翻訳した人が「やっと救われるのなら」と、きっと祈る思いをもってこう訳した。それは、この報いの正義の神様が、ただ私たちを深く憐れまれ、そして約束して下さったように、人は罪を償う犠牲の身代わりによって罪赦されて救われる以外に、救われ得ないではないか。罪人が受けるべき全ての被害者の叫びと訴えを神様が引き取って、その罪を償えるほどの巨大な犠牲を払ってのみ償い得る、いのちの償いで正義を満たして、だからあなたは赦されたと罪を赦され、やっと救われるしかないではないかと、御言葉を聴いたからでしょう。それをペトロもアーメンと受け取って、ここに神様の、大いなる福音の憐れみを聴きとって、ならばと、その憐れみが向かう先を共に見つめて、魂を注ぎ込んで、ならば、その神様を畏れ敬わない者たちは、裁きの時に、どうなるのかと、救われた兄弟姉妹たちに訴えかけるのです。

「どうなるのか」。直訳は「どこに姿を現すことになるのか」。どこにでしょうか。どこに姿を現すことになるのか。キリストの御前にです。私たち、そして全ての人がその時に姿を現すことになる、十字架の主の御前にです。正義をバカにする無慈悲な天秤の前ではない。むしろ慈悲深いが故に一切の正義を身に受けられて、焼き尽くす神様の義の炎で焼かれて身代わりとなられた主イエス・キリストの御前以外の他のどこにも罪人が姿を現す場所はありません。その罪人を救うために、創造主であられることを台無しにされるほどに罪を負われて、これが全ての人の犠牲だと十字架で姿を現された神様の前以外には、人が自分の罪の姿をそのまま晒せる(さらせる)場所はないからです。

そしてそのキリストの御前に、今はまだその福音の説得を拒んでいる人も、でもその時には私たちと一緒に、この神様の福音を胸に抱きしめて、主イエス・キリストの前に現れてほしい。福音と共に。

だから、もし今が、教会にとっては裁きの時、福音を証しする生活が試される時であるならば、それはこの福音に生かされる私たちが、神様の憐れみによって説得力を得た世の光として人々の前に現れるための、憐れみの時であるからです。だから、深い憐れみの御心を知る者として自らを主の御手に委ねなさい。主が造り変え、聖め用いて下さいます。