ペトロの手紙一4章1-6節、詩編90篇「だから御心に生きよう」

21/1/17主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章1-6節、詩編90篇

「だから御心に生きよう」

この手紙を書いた使徒ペトロがイエス様から言われ生涯忘れなかったろうと思われる言葉があります。イエス様が、救い主は死ななければならないと言われた時、ペトロが、そんなはずはないと主をいさめたら、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱られた。肉である人間の欲に振り回され、神様の御心がわからない人間の弱さと罪深さ。その人間をそれでも、だからこそ救おうと十字架で身代わりに死なれた神様の深い御心。その両者の違いは、心してわきまえなくてはならないとペトロは思っておったのじゃないでしょうか。

6節でも、その違いが強調されます。「人間の見方からすれば」そして「神様との関係で」と訳されましたが、これも「神様からすれば」という同じ言い回しです。直訳すると「確かに人間からすれば、肉において裁かれた。でも神様からすれば、霊において生きるために、死んだ者たちにも福音が告げ知らされたのです。」その死んだ者たちとは、右の頁下3章18節以下で言われたノアの時代に裁かれて死んだ人々のことです。その人々に死んで陰府に降られたキリストが福音宣教された。死んでも救われてほしいのだと。その神様の思いを、ペトロは改めて実例としてあげて、この御心のために生きようじゃないかと励ますのです。

ペトロを含む主の弟子たちも、キリストが死なれたのを見て、これで終ったと絶望したのです。神様の思いを考えることができず、死なれたイエス様が、しかし霊において生きて、ノアの時代に裁かれ死んだ人々の霊のところに行って福音宣教されたことに、そこに神様の深い御心と愛が、死んでもあきらめない救いの憐れみがあったことに、思い至れなかった。神様の思いを考えられない、神様の御心のために生きることが困難な人間の肉の弱さ、罪深さがある。だからこそ、その肉をキリストが負われたのです。

その人間と神様の対比が今朝の2節でも「人間の欲望」「神様の御心」と、並んで比較されます。私たちは、もはや人間の求めのために生きるのではなくて、神様の求めのために、残りの生涯を生きようと励ます。人間の目には、人生が、自分の求めのために生きるものに見えておっても、同じ私たちの人生が、神様には違うように見えているのです。違う見方を神様は私たちの人生に対してなさるのです。

死んだら終わりだからという考えは、いかにも人間の考えかもしれません。だから生きているうちに好きなことをしたいと考えるのも、いかにも人間という、根深い欲望だと思うのです。

その人間を、生きている者も死んだ者も、確かに神様は裁かれます。しかし裁きで終わりではない。肉で終わりではない。肉において裁かれ苦しみを受けて、何もかも終わりだと思う肉の人間が、それでも霊において生きること、そして復活を求められて、すべての人間の裁きを受けられた裁き主です。ただ裁くのが御心ではなくて、むしろその裁きから救われる道をご自分の死と復活によって備えること。それが神様の御心だからです。どうしても救われてほしいのが御心なのです。

ですから5節で「裁こうとしておられる方に申し開きを」と言うと、まるで何を言っても上げ足を取ろうと待ち構えているように聞こえるかもしれませんが、そうではない。直訳は「裁くことの備えがもうできておられる方に、言葉で返答することになる」です。

では私たちは、その言葉の準備ができているか。ただごめんなさいと言えばよいのでしょうか。言い訳を述べよということでしょうか。一体何と言えばよいのか。何か言い訳ができるのでしょうか。

その言い訳を、主ご自身が返答して下さったのです。私たちのために人となられた方が、私たちの裁きの十字架に身代わりに架かられた主が「父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らないのです」と、執り成し祈って死んでくださった。

申し開きと訳された言葉は、今朝の御言葉と深く結びついている右の頁3章15節で「説明」と訳されて出てくる言葉です。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」実はここにもう一つ、左頁5節と重なる別の言葉も出てきます。「備えていなさい」です。左の5節では「裁くことの備えがもうできておられる方に言葉で返答することになる」。一方で私たちは、救いの希望についての言葉を、人々の救いのために備えておかなければならない。どうして私たちはキリストを信じるが故に肉において苦しむことがあっても、それでもキリストを捨てないで信じるのか。捨てて皆と同じように生きれば楽なのに、どうしてキリストを信じるのか。その言葉を、未だキリストの福音を自分のこととして知らない人に対して、備えていなさいと命じられている。それは生きている者と死んだ者とをキリストが裁かれることを知らない人は、また、だからこそ自分の罪の裁き故に死ぬ私たちが、それでも霊において生きるために、キリストが死んでくださったことを知らない人は、その裁きの座で、返答の言葉を持ってないからです。でもキリストを自らの救い主として知って信じている者は、その時、返答の言葉を持っているのです。私たちも同じ理由で死ぬのです罪の裁きとしてすべての人が死ぬ。例外はない。けれどその死の先で、私たちは言葉を持っている。希望の言葉を持って死ねるのです。

生きている者も死んだ者も皆、自分が何のために生きて、そして何をしたか、自分の生涯について、全ての行いについて、罪について、言葉を返答することになる。どんな言葉を返答するのか。取ってはならないと命じておいた木から取って食べたのかと問われたら、何と返答するのでしょうか。皆、食べていたからと答えるのでしょうか。

キリストを知る者は、でもアダムと同じで、知らないでやったのではないのです。知っていたのです。

でもそれ以上に知っているのです。私たちはその裁きの座において、主がどんな言葉をお語りになられるかをこそ知っている。そしてその時には、必ず今以上に知ることになるのです。裁きの座で、どうしてその言葉を主が、私たちのためにお語りになって下さるのか。どうしてそれが私たちの救いになるのかを知るのです。主は、こう言ってくださる。あなたの罪は赦された。わたしがあなたの罪を背負ったと、十字架の主が、ほふられた神の小羊が、救いの主として宣言して下さる。

これが希望です。その言葉を、私たちはキリストご自身から頂いて、持っている。

だからです。その言葉をくださった私たちの主と同じ心構えで、武装するのです。キリストはこの人のためにも死んで下さったのだからと、すべての人に対して、この人はキリストに背負われた人だと向き合う。それがその人に対する、主の決意だからです。そして同時にこの人は、でもキリストに向き合うことを知らないのだと、この人は裁きの座で、どんな希望の言葉を持てばよいのかを知らないのだからと、だからこそキリストと同じ心構えで武装して、父よ、この人を赦してくださいと、執り成す人として向き合い生きるのです。この人が救われるために主は来てくださった。そしてこの人が救われるために、私も遣わされているのだと。自分の欲望がなるためでなく、神様の御心がなるために、人々の救いのために、主から用いられる備えができている者として、残りの生涯を生きていく。肉の弱さゆえ口先になっても、ペトロのように叱られても、ペトロのように愛し抜かれて、主にお仕えすればよいのです。