ペトロの手紙一4章3-5節、コヘレトの言葉12章9-14節「罪はもう十分でしょう」

21/1/10主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章3-5節、コヘレトの言葉12章9-14節

「罪はもう十分でしょう」

皆と違う生き方をしていると、そしられることがある。なら、けなし返したらよいのか。むしろ、そこでこそキリスト者の違いが、どういう違いなのかが明らかになるのです。その人たちのために、祈る。神様がその人たちの救いを求めておられるからと、ガチで信じる救いに生きる時、あれ、勘違いしてた?と、相手にも届くんじゃないでしょうか。

多いんです。勘違い。イメージ違い。この御言葉もそうしたイメージ違いを持ちやすいかもしれません。どういう思いで選ばれた言葉なのか勘違いしやすいかもと思うので、少し丁寧に説明していきます。

「異邦人」という言葉。主を知らぬまま生きている人々と言えばよいでしょうか。異邦人が好むような、またその後に続く言葉も上から目線で見下すのではなく、むしろだからこそ十字架の愛を教会は知らせるのではないかという思いで語られる言葉です。「好色」と訳された言葉は、抑えがきかず暴走することです。欲が暴走するで欲暴とも言えるでしょうか。ブレーキがきかん。あるいはそもそもブレーキがない。止めようとすると、何でいかんが?皆しゆうやか。したいというアクセルだけでブレーキがついてないドライブ。英語でドライブとは、衝動に駆られること、あるいは衝動そのものを言いますが、したい、ほしいという欲望のアクセルを踏んで、そこに向かって人をドライブさせる。時々、同じ夢を見ます。運転しゆう車がどんどんスピードが上がって、ぶつからんよう、崖から落ちんように必死でハンドルを切りながらブレーキに足を延ばすのだけど、全然ブレーキに届かない。どうしても届かず、必死にブレーキに足を延ばしている夢を見て、汗びっしょりになって起きる。あるいは妻に大丈夫?と起こされる。足で壁を蹴りよったでと。

「情欲」と訳されたのは2節で「人間の欲望」と言われた欲望です。神様の御心、求めの前で初めて、その歪みに気づく欲望。その欲望を含む私たちの罪を身代わりに負ってでも救われてほしいと求められる神様の求めの方向に、さあ一緒に行こうと誘っても、行かない求めがある。どうして神様の求めにアーメンと言えないのかが、その歪みです。

「泥酔、酒宴、暴飲」。高知では、え?何がいかんが(笑)というこの三拍子。暴飲と訳されたのは普通の飲み会ですが、それでも、どうしてあんなことをしてしまったのかと、取り返しのつかんことが起こることがある。誘惑に飲まれる。これもブレーキの問題と言えます。踏めなくなってしまっていた。欲望のアクセルは踏むのにです。

「偶像礼拝」。今の日本と同じで、当たり前過ぎて疑問にも思わない。皆やってたから、自分からしたいとさえ思っていた。願いが叶い欲望が叶い幸せが叶うなら、え?拝むろう、皆やりゆうやかと。

でも、もう十分ですと言うのです。十分にやった。何をか。神様を知らないが故に言わば当然仕方なく、あたかも自分からしたくて、やったかのような、ブレーキなしの欲望のドライブを、十分させられた。もうお釣りがくるほどさせられたから、もういいと言うのです。

そういうことを「行い」「ふけっていた」と訳された言葉は「させられ」「歩まされた」という受け身あるいは他から力を与えられて自分で行ったという言い方です。「欲望あるいは目的を実行させられた」。誰にか。誰の目的をか。罪のです。でも、もういい!言わば借金返済のためいかがわしい所で働かされていたけど、満額返済して足りたから、もうそこでの働きはやめてよい。あるいはスマホを買って月々何千円か24回で返済し続けて、本当はもう支払い金額を満たしているのに、いや、まだえいで、もっとやりたいきと、したくてそれをやっているなら、ペトロは言うのです。まるでその人は飲み過ぎて正常な判断ができないようにされて、本当はしたくないことなのに、それをしたいのだと思わされ、求めさせられ欲望させられ、ブレーキが遠くに置かれて足が届かない車でドライブさせられているのと同じではないか。ブレーキのない欲暴を実行させられているのではないか。私たちはそうしたドライブをかつてさせられていた。でももう十分だ。罪の奴隷として罪と結ばれ命じられその行く末も一蓮托生とされていた時には仕方なくても、今はそうじゃない。あなたはキリストを主人としてキリストと結ばれた、キリストのものになった人だから。キリストがあなたから罪の鎖を取り去って、ご自分の体と魂に巻き付けて、罪の報酬である裁きと呪いと死を十字架で引き受け、聖なる業火に焼き尽くされて、全部、償って下さったから。だから残りの生涯は、あなたを永遠の幸せに結び付けられた神様の求めのために生きて行こう、人々の救いのためにと呼びかけるのです。

そのため勘違いされることがあっても。それが4節以下です。「ひどい乱行(らんぎょう)」と言われると、ひどい罪深さを想像するかもしれません。でもそれは、誰の生活を基準にするかの問題でもあるでしょう。自分ではないでしょう。主が言われる神様の基準では、人に腹を立て、誰かを馬鹿呼ばわりするのは殺人。性的な目で配偶者以外の人を見るのは姦淫。いずれも死に値する罪深さです。だから生きている人と死んだ人は神様に裁かれる。人は本当の裁きを知らんからです。右頁でも触れたノアの時代、人々はどれ程ひどい乱行の故に裁きを受けたのか、今の私たちは死に値しないなのか、畏れたことはないでしょうか。

「ひどい乱行」の直訳は「外に溢れ出て失うこと」です。ブレーキを踏むところで止めないで、こぼれた浪費。失い、喪失し、むしろ直接の言葉で言えば「救えなかったこと」。覆水盆に返らず。取り返しがつかん生き方をしてしまった。その罪を、キリストが負って下さったのです。だから全く新しくやり直そうと、救って下さったのです。だから、もう十分だと悔い改めて、神様にごめんなさいと謝罪して、助けて下さいと祈り求めて、何度も倒れては起こされて、嫌になるほど罪深さを知っても、もはや今までとは全く違うキリストを主と信じる人生に、私たちはもう踏み出したのです。

その新しい歩みに対して、え~何でもう一緒に走ってくれんがと「不審に思い」と訳されましたが、そう思われることもあるでしょう。私も米国留学中にキリスト者になったもんですから、悪い熱にでもかかったんじゃないか、新興宗教の類じゃないかと心配されたようです。言わば私をそんな風にした不審者がおると、不審者を見る目でイエス様を見ることは、あると思います。皆がしてないこと、しかも、何でそんなことをするのか理解できない行動を取って止まない人を不審者だと指差す。何で神様の求めを選んで、自分の求め、したいことを選ばないのか。皆やっているじゃないかと。

でもその皆が裁かれることを知らないから、そう生きてしまうのではないのでしょうか。知っている私たちがそれでもそう生きてしまうのであるならば、どうして知らない人が神様を知るが故のブレーキを踏むことができるのか。単なる道徳や倫理や優れた人格でどうにかなるものではない、神様の求めのために生きる人生、神様の求めのためにブレーキを踏むところで踏み、アクセルを踏むところで躊躇しても踏む、裁きを知るが故にこそ生きる生き方は、生きている者と死んだ者とを裁かれるキリストによらなければ生きていけんのです。だからブレーキのない車を止めるために、十字架で私たちの滅びを止められた神様です。ここで止まれ!わたしがその暴走を止めるからと、罪に暴走する私たちの前に神様が立ちはだかって、ご自分を犠牲にして止めて下さる。人間が自分のために生きる暴走を止めて下さる。その十字架の裁き主を、こよなき愛を信じて歩むのです。私たちの前には常に十字架があるからです。