ペトロの手紙一4章1-2節、箴言4章20-27節「キリストに構えを学ぶ」

21/1/3新年主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一4章1-2節、箴言4章20-27節

「キリストに構えを学ぶ」

新年を迎え、今年の目標を立てられた方もいらっしゃるでしょうか。1節で「同じ心構えで武装せよ」と言われます。物騒ですが(笑)。この心構えと訳された言葉、「決意」とも訳し得る言葉です。態度を決める。これだ!と目標を立て、邪魔立てする一切にNO!と言う心構えを持つ。新年に相応しい御言葉を主が与えて下さったと嬉しくなります。

ただ私のように自分の三日坊主に懲り懲りして、牧師が坊主言うのも変ですが(笑)、新年の目標は立てんという決意もあるかもしれません。その弱さをペトロはよく知っているのです。十字架を前に苦しまれる主から、起きて一緒に祈ってほしいと求められたのに、どうしても起きて祈れなかったペトロに、心は燃えていても肉は弱いきと主は言われた。その肉の弱さをペトロは残る生涯、忘れんかったと思います。弱いと。

その「肉」という言葉が今朝の御言葉で三度繰返されます。続く6節でも「肉において」。どこから始まったかというと前の頁下3章18節、4行目から直訳します「確かに肉においては死に渡された。しかし霊においては生かされて、捕らわれていた霊たちのところに行って福音宣教されたのです」。確かに肉は弱い。キリストご自身、十字架の苦しみを前に、この苦しみを取り除けて下さい、でもわたしの求めでなく、あなたの求めがなりますようにと泣いて繰返し祈られた。苦しみ上等!という態度ではない。弱いし苦しい。けれど、それでこの人たちが救われるならと、それが18節です。キリストも苦しまれた。正しくない者たちのために。あなたがたを神様のもとに導くために。そのためにならと、今朝の1節に続くのです。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」。私とあなた、私たち、全ての人が神様のもとに導かれるために、聖なる三位一体の御子なる神様が、私たちと同じ肉を取られた。弱い人となられた。弱い私たちの身代わりとなるために来て下さった。それは私たちもまた、肉においては死に渡されても、霊においては生かされて救われるためだ!そのために神様は受肉され、弱い肉を受けられて来てくださった。その肉に苦しみを受けて下さった。だから私たちも、同じ心構え、決意で武装しよう、人々の救いのために、と呼びかける。

2節「それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。」

「人間の欲望」と言って「自分の欲望」と言わないのは、どうしても人間が自分の欲望のために生きてしまう、その肉の弱さが皆にあることを訴えているからでしょう。だからその直前に「との関わりを絶つ」話をする。直訳は「肉に苦しみを受けた者は、罪を停止させられる」。罪をやめようと決意して、自分の力でやめられた人はいるのでしょうか。罪の手前で停止しようと思ったのに、停止できなくて、罪に突っ込んでしまう肉の弱さを知らない人がおるのでしょうか。だからペトロは「罪を停止させられる」と受け身で、あるいは他の力によって力を得て停止ができるという言い方をします。痛い思いをして、その痛みの力を得てブレーキを踏むことができる。本当はしたくないことを、しないですむようになる。そのために苦しんでも、後で良かったと思える。きっと、おわかりになることだと思います。そのブレーキを踏めるのは、そして踏むのは、誰のためなのかという話をペトロは続けるのです。

「神の御心に従って」と訳された言葉、直訳は「神様の御心のために」あるいは「神様の求めのために」という言葉です。

再び3章18節のキリストの決意に戻りますが、キリストも「正しくない者のために」苦しまれた。そこから今朝の御言葉に至るまでペトロは一貫して問いかけるのです。私たちは誰のために生きるのかと。人はどうしても、自分の欲望、自分の求め、欲しいもの、したいことを満たすために生きてしまう。続く3節で、かつてあなたがたも主を知らない人と同じように生きてはなかったかと思い出させる所以でしょう。いや私はそんなに悪くはないと思っていても、ではあなたは今、誰のために生きているのか誰の求めのために生きているだろうか。これからの残りの時を、では誰のために生きていくと、心に決めるかのか。ああ、是非あなたの残りの時を、私たちと共に、神様の求めのために生きてほしいとペトロは訴える。肉の弱さゆえ主の求めに応えられず祈ることもできず、起きていることさえできなかった、本当に弱い愛のない私のためにも、主が、あなたの代わりに苦しんでもよいと決意されたように。主が弱い肉を受けられて、弱い私たちが嘆き祈るように、いや私たちもまた神様の愛する人を背負って嘆き祈れるように、それでも愛すると、主が決められたように。同じ心構えを一緒に受けよう。自分からは出てこない、神様から来る心構えを、その愛の傷が残る主の御手から共にいただこう。自分に残された時がどれだけであっても、自分の残りの生涯を、神様の求めのために棒に振って、御国で良かったねと笑い合おう。御国が来るから。そこに私たちを救われた神様の喜びの構えがあるのです。