イザヤ書61章「良きゴールを仰ぎ見て」

21/1/1元旦礼拝説教@高知東教会

イザヤ書61章

「良きゴールを仰ぎ見て」

「主が恵みをお与えになる年」。今日迎えたこの新しい年も、主が恵みをお与えになる年として、改めて信じ感謝して迎える。それはまことに幸いな新年の迎え方です。

よく、今年はどんな年にしたいかという抱負を聞いたりします。もう既に、その抱負を決められた方もおられるかもしれません。5kg痩せるとか(笑)。え~一緒に頑張りたいと思います。無論、私たちが頑張ってやるパートはあるのです。いま御言葉に聴いた福音ということは、何も私たちがしないでよいということではありません。たいへん具体的なイメージだなと思いますのは4節で、それは廃墟を建て直し、新しくすることだと言われます。

この御言葉が語られた時、おそらく預言者の心に浮かんでいたのは、敵の攻撃を受け、誰からも見捨てられたエルサレムの廃墟です。神様が選ばれた、主を礼拝する神殿のあった都なのにと、誰もが思ったに違いない。あるいは、そのように自分を、この廃墟に重ねて見る人も少なくないと思います。信仰者もです。敵の攻撃に破れ、異国バビロンの地に捕囚の民、囚われの身とされていたユダヤの民自身も、自分たちは罪故に神様から見捨てられたのだと思っていた。そして、どうしてそうなったのかを、きっと後悔もしたのですけど、後悔の中で自分自分に捕らえられて神様を見失うということはありうるのです。そして絶望し、自分たちの将来を見捨て、むしろ神をも見捨てたほうが楽じゃないかと、後にイエス様が語られた言葉で言えば、神様を信じる心をも失うほどの、心の貧しさに陥っておった、その民に向かって、神様は、この御言葉を与えられたのです。捕らわれ人となっている者たちに伝えなさい。あなたがたは自由になる、解放されるのだと。主が恵みをお与えになる年が来るからと、慰めを与え、神様の救いを信じられなかった暗い心に代えて、賛美の衣をまとわせなさいと。何故か。滅びと捕囚の原因となっていた罪の裁きが終わって、いまや恵みの時が来たからです。天地を造られた神様が、あなたを赦すとお決めになられたからです。神様が、あなたにそうするとお決めになられて、その実現のために働かれ、そのわたしを信じて、ついてきなさい、あなたに恵みの年を与えるからと約束された。さあ、廃墟を建て直そう、新しい生活を築き直そうと招かれた。

この御言葉を、イエス様は救い主としての御業を始められた時、礼拝で読み、人々に説き明かす御言葉として選ばれました。そして、あなたがたの聴いたこの御言葉は成就したとおっしゃった。ご自身こそが共に廃墟を建て直すために来られた神様、恵みによって罪を赦して救われる神様だと言われたに等しい告知の言葉です。1節で「主はわたしに油を注ぎ」と言われます。神様の御業を行うために特別に選ばれた人に聖別の油を注ぐ。その油を注がれた人をキリストと呼ぶ。イエス様は、自らをキリストであると人々に告知された。それはイエス様こそが、すべての人を、その罪の裁きと滅びから、救い、解放し、自由にされるために来られた恵みの主だからです。この恵みの主がおられるところに、恵みの年が与えられるからです。そしてこの恵みの年が来たという告知にはそのすぐ後に告げられる、報復の日の告知が伴うからです。神様を信じさせない罪、恵みを信じるよりも自分を信じさせ、あるいは自分はもう駄目だという自分をさえ信じさせて、どうしても神様の恵みと愛を信頼させない、罪という主人に人を縛りつけ隷属させ押さえつけてしまう、この神様の敵に対して、神様が正義の報復をなさることによって、人はかつてのユダヤの民のような裁きによる滅びから、救われるからです。そしてその罪の裁きと報復を、キリストは自らが身代わりに受けられるために油を注がれて、裁かれ身代わりに滅ぼされ死ぬためのキリスト、すべての人の主として来てくださった。これが主キリストの福音です。そしてこの福音の告知は成就したから、あなたの廃墟も、あの人の廃墟も、わたしが責任を引き受けて十字架で滅び死んだから、あなたたちの罪は赦されたから、あなたがたもわたしと一緒に立ち上がって、廃墟を新しく建て直そうと言ってくださる。復活のキリストが、恵みの新年の朝日と共に、恵みの人生を建て直そうと呼ばれるのです。

この恵みが、また私たちを一つに結びます。いまや他国人もユダヤ人もなく、皆、キリストに結ばれた主の民として、共に廃墟を建て直すために呼ばれています。これは俺のもの、私のものという支配ではなく、我らの罪を赦したまえ、我らの日用の糧を与えたまえと、我らの父から与えられる恵みのご支配に、主の名によって生かされているからです。共に廃墟を新しくしましょう。この年は主の恵みの年であるからです。