ペトロの手紙一3章18-22節、ホセア書11章「それでもなお救われよ」

20/12/27歳晩主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章18-22節、ホセア書11章

「それでもなお救われよ」

キリストも苦しまれた。正しくない者のために苦しまれた。ここにもクリスマスの光が輝いています。むしろクリスマスの光が、どんな光であるのかが説き明かされています。暗闇と死の陰に座している者たちを照らすキリストの光は、文字通り、死んだ者たち、しかも御言葉に従わないで死んだ者たちの上にも届いたのだと告げるのです。その人たちのためにも神様が人となられ、正しくない者のために苦しまれ、十字架でその罪を負って死なれた神様による償いの福音を、罪の赦しの福音を、あるいは陰府にいた者たちこそが真っ先に、陰府に降られたキリストによって宣べ伝えられた、福音宣教されたというのです。

アドベントを挟んで、しばらくぶりにペトロの手紙に戻ってきましたので少しおさらいをしますと、この手紙は当時の迫害を含む、キリストのために苦しみを受けていた、あるいは受けることになるかもと不安を持っていたキリスト者たちが、では、どういう態度でその苦しみに向き合えばよいのか、教え、説得している御言葉です。

どう説得するのか。正しい良心に訴えるのです。言わば、聴いている人を信じて、その人格を信頼して、あなたはわかるでしょうと信じて、まっすぐに目を見て、心を見て、その心にはキリストが住んでおられるから、あなたはキリストを受け入れ洗礼を受けたのだからと、ガチンコで語りかけてくる。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。」

キリストも苦しまれた。あなたがたを神様のもとに導くためだ。その正しさを、愛の正しさを、相手が正しくないのに優しくする、愚かにもその正しくない相手のことを考えて、でもその人の正しくなさを責めるように考えるのではなくて、この人が神様のもとへ導かれますように、救われますように、この人が神様の恵みのご支配に捕らわれて造り変えられて祝福されて幸せになりますようにとすら考えて、求めて祈って、苦しみを忍耐する。愛の忍耐ゆえに苦しみながら、父よ、この人の罪を赦してくださいと十字架の祈りを捧げるのは、キリストもそうなさったのだと、まるでキリストと私たちの立場が反対になるような言い方で、そう言うのです。キリストも正しくない人々の罪ゆえに苦しまれたと。

でもそう言われたら私たち、いえ、私たちは、あなたがその故に苦しまれた「正しくない者たち」のほうです。正しい者のほうではありませんと、十字架の主を前に思うんじゃないでしょうか。苦しみに捕らえられてしまっている時には、自分のほうが正しいと、相手を責める思いになったとしても、イエス様の前では、いえ、そうではないです、それは嘘です、人と比べてそう思っただけで、私はあなたが苦しんで下さってそれで十字架で抱かれて背負われて罪赦されて救われた、正しくない者のほうですと思うのじゃないか。でもクリスマスの御子は、まさにその正しくない者の代表・主となるために肉を取られて、人となられて、正しくない者を皆引き受けられて、十字架で裁かれて身代わりに死なれたのです。その正しくない私たちが神様のもとへ導かれるためです!

そして復活の主が、この手紙を書いた弟子のペトロに何と言われたか。わたしについて来なさいと繰り返された。他の人々がどうであろうと、罪の自分が邪魔しようとも、あなたはわたしについて来なさいと、主はペトロの主として言って下さり、また私たちの主として言って下さる。わたしについて来なさい。わたしも正しくない者のために苦しんだが、それでその人が神様のもとに導かれるなら、幸いじゃないかと。私たちはこの18節の御言葉を、まるでキリストのお名前をなぞるように読むことが許されているのです。キリストのゆえに苦しみを受けても、それは人々が神様のもとに導かれるためだから、その人の救いを思って愛の忍耐をしよう、その結果はわたしが引き受けると主は言ってくださる。

そして、ここが御言葉の急所になりますが、その忍耐は、ではすぐに報われるのか。キリストにお従いして苦しむ言わば秘儀のような奥義のような苦しみの忍耐なのだから、もうすぐにでもと期待する言わば射程の短い忍耐を、もし思うなら…いや、そう思いやすいからでしょうか。この忍耐の射程は、死んだ後の陰府にまで至る忍耐だ。それがむしろ、あなたがたの知る人間の正しくなさ、どうしても悔い改めない、神様に途方もない忍耐をさせる人間の罪の姿ではないのかと、ペトロはノアの話をしだすのです。

20節を直訳します「この霊たちは、以前、説得を拒みました。神様の忍耐が熱心に待ち望んでいた時。箱舟が用意されていたノアの日々に。そこにはわずかな人々が入り、つまり8人が水を通って救われました」。

ノアは、家族以外の人々も、神様から用意しなさいと言われた箱舟に入ってきてくれると期待してなかったでしょうか。しておったと思います。神様から用意しなさいと言われて、祈って備えた礼拝に、教会に、私たちが、あの人々に来てほしいと願って備えているように、ノアたちは頑張って備えたと思います。でも来ない。最後の日も、来ると思ったけど、来んかったのです。「従わなかった者」と訳された言葉は「説得を拒んだ」という言葉です。この手紙でペトロが4回用いるキーワードです。次の4章だと下段最後のほう17節で「神の福音に従わない者たち」。前の頁3章1節では「夫が御言葉を信じない人であっても」と訳されました。もう一つはその右斜め上2章8節「御言葉を信じない」。いずれも救いの御言葉による説得、福音の説得を拒む。神様から、あなたには救われてほしい、帰ってきてほしい、信じてほしい、わたしはあなたを愛していると、放蕩息子の帰りを待ち望んでいた父親のように神様は滅びに至る世の救いと帰りを忍耐して待ち望んで待ち望んで、それをやめることをこそ拒まれる。でも私たち人間は、その神様の恵みによって救われることを拒んで、死の牢獄に捕らえられ、そこが私たちの行き場だとうそぶいて、洗礼を受けて救われる者たちが、わずかしかいないじゃないかというのが、ペトロの時代の教会においても、教会の忍耐をくじくような人間の罪の現実であったと思うのです。祈っているから、忍耐して待ち望んでいるから。でもそれでもどうしても届かない、神様の忍耐さえも届かない、福音を拒んで死にゆく人間の現実を前に、じゃあ何をやってもだめじゃないかとあきらめてしまいたくなる私たちに対して、いや、神様はそのどうにもならない人間の救いを、それでもどうしてもあきらめないで、本当に死んでもあきらめず、死んで陰府に降られた。そして暗闇と死の陰に支配され、絶望して座すしかない陰府で、神様の説得を拒んで死んだ人々に向かって、それでもなお、わたしはわたしを拒むあなたたちに救われてほしい、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じよ、わたしはあなたの罪を償ったと福音の宣教をなさるのです。神様は死んでもあきらめない。その忍耐は死の先にまで及ぶのだから、だからあなたも忍耐して、わたしについて来なさい。未だこの救いへと入っていない人々が、神様のもとへ導かれるためにと、主は私たち、ご自分の弟子たちにも、愛の忍耐をあきらめるなと説得なさる。国と力と栄とは、御子を死なせられて人を救われる父なる神様のものだからです。

この父が、その右の座におられる御子に一切のものを服従させられ、生きている者と死んだ者とを裁かれる御子に、正しくない者のために苦しまれ陰府に降られて宣教された主に、救いを任せておられる。だから誰が救われるのか、誰もがかは、人が決めることではありません。私たちはただ、その恵みのご支配に服して、その愛にお仕えするのです。