ルカによる福音書1章26-38節、詩編89篇2-5節「おめでとう、主が共に」

20/12/13待降節第三主日礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書1章26-38節、詩編89篇2-5節

「おめでとう、主が共に」

この天使、喜んで帰ったろうなと思います。マリアに取り次いだ主の御言葉を、マリアが信じたからです。「お言葉どおり、この身になりますように」。御言葉が私に実現しますように。信じるというのは、どっかの誰かの話ではなくて、この神様の御言葉が成る、実る、現実に実を結ぶことを受け入れ、信じるのです。マリアは信じた。御言葉を。

それは今お読みしませんでしたけれども、同じ頁の上の段右端にある「信じなかったからである」と、全くの反対側にある、極めて対照的な出来事が起こったのです。信じなかったのは、礼拝でお仕えするために特別に祭司として選ばれていたザカリアです。マリアの親類エリサベトの夫にあたる人です。ザカリアは、子宝に恵まれなかった自分たち夫婦が、しかし神様の救いの目的に従って選ばれて、子宝が恵まれるようになる、その子の名前をヨハネと名付けなさいと、マリアへの受胎告知に先立って天使から御言葉を受けた、その時に、「信じなかった」。天使は悲しく思ったに違いないのです。祭司という務めは、言わば今の牧師の務めとも似ていますから、え?あなた牧師でしょ?と、どうして牧師が信じないのか、それでどうやって、皆が信じるようにと与えられた救いの御言葉を、皆に取り次ぐことができるのだ、皆が信じるために、救いの喜びを皆が得るために、そのために神様はあなたを選ばれたのだと、もしそう言われたらギャフンとしか言いようのないこと、主の御言葉を「信じなかった」ということをやってしまった。それでも!なのです。人間の不信仰は、それでも神様の御言葉の実現を妨げることはできないことが世に証されるために、不信仰のしるしとして口がきけなくなったザカリアは、その苦しみや不自由も全部ひっくるめて、神様に用いられてしまう。それが今朝の御言葉に続きますから、ぜひ家に帰ってお読み頂けたらと思います。御言葉の通りになった!と、喜んで主を賛美するザカリアを、これも我が事のように味わって頂ければと願います。その喜びを、ザカリアに御言葉を告げた天使が、もし神様から、ほら、見てごらん、あのザカリアの顔をと見せてもらえたら、良かったと、一緒に喜んだんじゃないかと思います。

信じるとは、神様が特別な思いをもって語られた御言葉を、私のこととして信じることですが、それは私だけの話で終わるのではなく、私が御言葉を信じることが、他の人々への救いの喜びにつながる。それが、神様の御言葉を信じるということ。そして、それが御言葉の持っている広がりなのです。御言葉はそれを聴く一人一人、私目がけて、あなたを目がけて、神様に愛されている一人一人に目がけて語られますが、その目的は、その御言葉を信じる私が、あなたが、マリアが、一人一人が用いられて、神様が独り子をお与えになるほどに愛されている世が、神様は本当に愛であられて、私たちはその愛によって救いへと呼ばれているのだ、主は生きておられると、同じ喜びに与るためです。そのために、主は私たち一人一人に、御言葉を語られます。

マリアが聴いた御言葉もまた同じです。何も彼女は私たちと違う別様の御言葉を聴いたのではありません。世界の救いのために、神様が愛の奇跡をお与えになるという御言葉を聴いて、それはあなたに起こる御業だと聴いて、戸惑いながら、どのようにしてそんなことが私にと、人間の常識で考えたら理解を超えるしかない、でも神は愛だと信じる者は、信じるしかない御言葉を聴いて、主よ、あなたの僕を用いて、御業を、御言葉を行なって下さいと祈るようになる。そういう御言葉を、マリアも、また私たちも主から聴くのです。その主役は、信じるマリアでも、信じる私たちでもなく、語られた御言葉を実現される神様です。そしてその御言葉を信じる時、御言葉が初めから見ている目的、世の救いへと向かってしかも信じる私たちを通して、喜びは広がります。

またそこで、その御言葉を信じる者の生きる世界も、救いの広がりを与えられていきます。私たち、つい自分のことだけで一杯になりやすい狭い世界に生きて、自分のできること、できないこと、したい、したくないことで毎日を考えてしまいがちかもしれません。でもそこに神様は天使を遣わし、教会を遣わし、御言葉を信じる僕たちを遣わして、神様が、わたしはこの世界を救うための計画がある、その計画には、あなたが必要だと、御言葉によって私たちを呼び出して、その御言葉の中に!私たちを置かれます。そうしたら、え、いま私に起こっていることは、神様の救いのご計画の中にあるのかと、私に起こっていること、そしてそこで私が生きて、喜び、あるいは苦しむことが、私のことだけでなく、世界の救いのためにあるのだと目が開かれる。そして私は誰か?そうだ私は御言葉が教えるとおり、私は私が生きて喜び、あるいは苦しみ、最後には死ぬこの世界の中で、しかしその世界が救われるため、死んでも死を超えて救いを得るため、そのために主に選ばれて、恵みを受けて生きている、私は主の僕なのだと知り直すのです

それが今朝の御言葉の最初で、「六か月目に」と記されて、マリアの話が始まった理由です。天使が現れたのはマリアだけにではない。初めて御言葉が語られたのでもない。神様は常に御言葉によって世界にご介入され、入って来られ、御言葉の通り御業を行なわれます。御言葉の通りに世を救われるという約束としるしを刻まれます。これまでも、そしてこれからも。キリストが再び帰って来られるまで、すべてが貫かれて、つながって、この神様の救いの歴史の中に、すべての人が置かれているのです。ザカリアもエリサベトも、マリアも、また私たちも、その救いの歴史の中の大切な一人一人です。そしてその一人一人の言わば個人史とも言える、毎日の私の生活、私の喜び、私の苦しみによって刻まれる私の歴史の只中に、神様が御言葉によって介入してこられて、そうだ、私もまたマリアのように、人々の救いのために主に用いられる、神様の救いのための僕だと知り直す。すると私私で終始する小さな自分史が、フッと広がりを持つのです。自分が主語で主役の、私は私がの小さな私のストーリーから解放される。そして救いの歴史の、けれども大事な役を与えられた神様の救いの僕の一人として、私たちは自分たちの思いを遥かに超えて多くの人とつながっていることを、言わば信仰の肌感覚で知るのです。思いもしなかった人の救いのために、世の救いのために、欠けてはならない大切な僕として、永遠に残る永遠の価値を持つ永遠の命に人があずかる永遠の救いのために用いられるのです。いざという時に信じられなかったザカリアをも用いて、エリサベト、マリアを用いて、私たちを用いて、ご自身の、恵みの御業を行なってくださるのが、神様だからです。永遠の御子を、「そのご支配は終わることがない」と御言葉が高らかに宣言し賛美する、永遠の御子であられる神様を、世の償いとして人として生まれさせ、世を背負われて、神様ご自身の犠牲によって罪を赦して世を救われる。それが私たちの神様、私たちを御子によって救われる、三位一体の恵みの神様であるからです。

この恵みの神様が、あなたと共におられるからと、天使はマリアに告げたのです。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。それはまったくもって私たちに、御子が与えられたこの世界に向けて、今も告げられている祝福の宣言、福音の御言葉です。主があなたと共におられる。マリアのように、それで困難がなくなるのでなくとも、むしろそれ故の困難があっても、その困難の中で、主が共におられる。一層近く共におられる。一層の慰めをもって、恵みの主があなたと共におられ、あなたを用いてくださる。この恵みの主を、信じて讃えるのです。