イザヤ書9章1-6節、ヨハネによる福音書16章33節「死の陰の地に輝く光」

20/11/29待降節第一主日礼拝説教@高知東教会

イザヤ書9章1-6節、ヨハネによる福音書16章33節

「死の陰の地に輝く光」

今日からクリスマス当日までの約4週間、教会はラテン語でアドベントとも呼ばれる待降節の中を共に歩みます。そこにあるのは闇でしょうか、光でしょうか。私たちは闇の中を歩むのか、それとも光の中を歩むのか。おそらくほとんどの方は、確かに闇もあるけれど、光がないわけでもないのではと考えるんじゃないでしょうか。闇もあり、光もある。でもその闇とは何か。そして光とは何か。

預言者イザヤはこの光、しかも「大いなる光」を「深い喜びと大きな楽しみ」と結びつけます。しかもその喜びは、一人あるいは何人かの仲の良い仲間とクリスマスを楽しむような喜びではなくて「御前に」神様のお顔の前で神様と一緒に喜ぶ、だからこそ大きな、神様の大きな喜びを一緒に喜ぶ光なのだと、もうイザヤの口元自体喜びでほころびつつ、目が喜びで輝いているような語り口で、この喜びの光を告げるのです。

その喜び、あるいは興奮が伝わってくる語り口が、この翻訳だと少し隠れてしまったので、直訳で2節からお読みします。「あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。何故なら、彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折って下さったから何故なら、地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされたから何故なら、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれたから。ひとりの男の子がわたしたちに与えられたから。」

何故ならという接続詞が繰返され、しかも喜びの原因が、言わば楽譜のクレッシェンドのように、小さい音から大きな音になるように、これが喜びの理由です、これがもっと大きな喜び、そしてこれこそが最大の喜びの理由ながです!と、オーケストラの演奏が最大音量になるところで「何故なら、ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれたから!ひとりの男の子がわたしたちに与えられたから!」と歌う。

無論そこにも、全く闇がないわけではない。光そのもののなかには闇はなくても、その光に照らされて、その光から、わたしはあなたのために生まれてきた、あなたもまた光の子となって闇から救われるために!と呼びかけられて、「力ある神」と呼ばれる方からの救いの約束が与えられていても、私たちの内の一体誰が、だから私の内には一切闇がありませんと言えるでしょうか。私の歩んでいる世界には闇なんかないですと言える人が、いるのでしょうか。

闇とは何かと先に問いかけました。色んな闇、心に浮かぶイメージがあると思います。今のコロナ禍による不安を思う人。新聞やニュースを暗くする様々な犯罪、悪、疑惑、不信感を思う人もいるでしょう。でも木を隠すなら森の中と言われるように、隠そうと意図してはなくても、自分の闇を闇の中に隠して、自分が持っている人に言えない不安や恥、人にはもちろん自分にも言いたくない隠したい罪の思い、過去、闇を、真っ先に思い浮かべる人がどれだけいるだろうとも思うのです。多くはないのじゃないか。それもまた人間の闇、罪の闇ではないでしょうか。

「闇の中を歩む民」と預言者が語った時、その幻をイザヤが見た時、イザヤは誰をそこに見たのでしょう。自分はその民の中におったのか。私たちはその中におったのか。私たちは、御言葉が「闇の中を歩む民は」と語る民の中に、自分の知る自分の闇と共に、自分を見出すのか。そこに自分の闇を見て、この闇の中を歩む民は私たちのことだと、この幻を与えて下さった神様の御言葉の内に自分たちを見出す人は、幸いです。その人は、この闇の中を歩む民が見た、大いなる光を見るからです。

その光は、闇がない人を救うためでなく、闇から光へと脱出成功できた人を迎えるためでなく、むしろそのためには私は何をしなくてはならないかを本当には知っているのに、光を全く知らんわけじゃないのに、それでも闇の中を歩んでしまう、他の人々を言い訳にしてでも歩んでしまう、闇に敗北し、闇を受け入れさえしてしまい、本当は闇は敵だと知っていながらも、敵に囲まれ闇の中を歩む、その民に向かって言われるのです。あなたはその闇に背を向けて、わたしのもとに来なさいと、大いなる赦しの光を輝かせられる。それが聖なる父から与えられた「ひとりのみどりご」主イエス・キリストだからです。あなたの闇はわたしが飲み干す、あなたの敵はわたしが焼き尽くすと、十字架の上で闇に覆われて、闇に押しつぶされ、闇をご自分の闇として背負い切られた主が、ご自分の痛みと苦しみと死によって、闇を、神様の敵としてご自分もろとも十字架の裁きの炎で焼き尽くされたお方が、その大いなる光の中でおっしゃるのです。この裁きの炎は、あなたを焼くためでなく、あなたを照らし、あなたを導き、あなたを清めて、わたしの民として、闇から救い出すための、赦しの光だから、あなたを照らして消えることのない光の中で、あなたはわたしの民として歩みなさいと言われるのです。

この待降節の中を歩む私たちは、闇の中を歩むのか、光の中を歩むのかと、先に問いました。また、キリストが来て下さった光の中で、でもそれで闇が全くなくなったわけでもないとも申しました。確かにまだ闇はある。私たちの内にも、また私たちが歩む世界にも、闇がなくなったどころか、キリストの光に照らされることで、むしろ闇がもっと見えるようになるのではないかとも思います。これは闇ではないと思っていたことが、むしろ光のように思っていたことが、色を失い、光を失うばかりでなく、まるで魔法使いの映画でも見るように、それが闇になって、わっと、手放す他なくなって、私はこれを何だと思っておったのかと、かけられていた魔法が解けたような思いになることもあるのではないかと思うのです。例えば使徒パウロは、キリストの大いなる光に出会って自分がそれまで何をしておったか、目から鱗が落ちるようにして知りました。そしてそれ以来、それまでこれが自分を救い、自分を天国に結び付けるもの、これが自分の価値だと思っていた、自分の宗教的正しさ、私はこれを行なって、これを守っているから、こんなにも熱心にやっているからと、光として見えていた自分の正しさが、これは自分にとって損失でしかないと見えるようになった。全く反対のものに見えるようになったのです。これは光じゃない。闇だ。私に命を与えるものでなく、奪うもの、失わせ、損失させ、私自身を闇の中に失わせてしまうものに過ぎない。これに頼って、自分を信じていたら、いや、私は正しいと、自分を信じていたら、自分の罪が見えなくなる。罪は、赦されなければならないことが見えなくなる。そして自分は正しい、赦しも正しさで勝ち取れるのだと、罪を罪とせず、その罪を罪だと言われる神様を神様とせず、神様を引き離すばかりか、神様の前から私を失わせてしまう自分の正しさは、永遠に私を損失させてしまうブラックホールのような闇だと、キリストの光に照らされて、闇は闇、罪は罪だと悔い改めた。方向転換をしたのです。私は、この罪の私を救うために闇に飛び込んで来て下さって、私の身代わりとして生まれて来て下さった神の御子イエス・キリストに向かって私の顔を上げると、こんな私を救われるキリストを信じてパウロは歩んだ(フィリピ3章)。その同じ光を、闇の中を歩む民は、深い喜びをもって今も見ているのです。主は生きておられると。

まだ闇はある。闘うべき闇、罪、不信仰という敵はまだいるし、全てが光になったわけではない。けれど光はもう来た。キリストが十字架で罪と死に勝利して下さった光は、人を赦しと永遠の命を受ける者として照らし続けています。だからこの光の中で、主の民として歩むのです。