ペトロの手紙一3章18-22節、詩編51篇12-21節「キリストを選ぶ洗礼」

20/11/8主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章18-22節、詩編51篇12-21節

「キリストを選ぶ洗礼」

この手紙を記した使徒ペトロは、福音書に出てくるペトロそのままに言わば性格が不器用な人やなと思います。この手紙はキリストのために苦しみを受けている、あるいはこれから受けるかもしれない人々を説得している手紙です。私たちなら、どう説得するでしょう。あるいは説得しないで、そうやね、嫌やねえ、祈りましょうで終わることもあるかもしれませんが、ペトロは、不器用と言うか、ガチで説得しようとする。けど私、好きです。私も不器用だからでしょうか。真っ直ぐなペトロの信仰に襟を正す思いになるのは、でも私だけではないと思います。

その特徴を二つあげると、まず18節。「キリストも」罪で苦しまれたからと、え、その説得の仕方、もうしたやかという説得を繰返します。前の頁上の段2章21節をご覧下さい。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

「キリストも」苦しまれたのだから。しかも、あなたがたのために!それが、私たちのイエス様に従って歩む道じゃないかと訴えるのです。キリストが、私のために苦しんで下さったのだから、だから私も、私を苦しめる人の救いのために、その人の救いを祈って苦しみを忍ぼうと、キリストを仰ぎ見て、心に決められるように、十字架で私たちを背負われたキリストの前に、私たちが立てるように説得する。そうだなと思います。キリスト抜きで何を説得しても、それはどこかはぐらかしになるのではないかと思うのです。

そして二つ目のガチ、ま、ペトロという名前が岩という意味ですから文字通りガチンコな説得しかようせんのですけど、それがよく表れている二つ目の言葉が今朝の21節の3行目、「洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」と言われる、「正しい良心」という言葉。同じ言葉が、上の段16節でも言われます。キリストが救って下さるという希望について「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で弁明するようにしなさい」と。その一つの理由は、あまり言いたくはありませんが、新聞で取り上げられる政治家の言葉や態度を見れば、反面教師的にお分かりになると思います。正しい良心から出る言葉は、わかるんじゃないでしょうか。良心から出た嘘のない言葉は、それを聴く人の良心に訴えかけると思うのです。

今朝は少し聖書の読み方のお勉強のようになりますが、時には大事なことだとも思います。特に今朝の御言葉は、解釈の繊細な細道に人々が入り込んでしまう難所で、死後にもキリストを信じる可能性があるのかと嫌でも考える御言葉です。ですのでクリスマスの後、改めてここから聴きたいと願いますが、一番大事なのは、どうしてこんなことをペトロが言いだしたのか?です。その意図、説得の流れを無視して細かい論議に迷い込むと、御言葉の説得を聴けなくなって、自分の思いに引きずられやすいのです。政治家の論点ずらしと似ています。相手が何を問題としているのか、何に訴えかけようとしているのか、それを真っ直ぐに受け止める時に、話は分かるのです。いや相手が分かって、相手の気持ちが分かって、もし自分に変わらなければならない点があるなら、自分の良心の痛みから、このままではいけないと、何かが変わり始めるのではないでしょうか。それをはぐらかすのは、正しい良心ではないことは、きっと誰もが知っているのです。そして知っていながら、はぐらかし、逃げる。アダムとエバが神様の前から逃げたように。

だからこそ、私たちが逃げたいと思う苦しみの問題に対して、しかも多くの場合に私たちを苦しめる、人間関係での苦しみに対して、ペトロは「正しい良心」に訴えかけて説得するのです。私たちが、キリストに従うのは何故か。何故、キリストもあなたがたのために苦しまれたのだから、だからと、それが説得になるのか。キリストが苦しんだからって何で私が苦しまなければならないのかと言いたくなるのではないのか。どうしてキリストもあなたのために苦しまれたのだからという説得が、説得になり得るのか。だってキリスト者でしょという言わば頭でわかる理由は、それに説得されて心と態度を変えようと思う理由にはならんのです。正しい理由ですよ。その故に終わりの日に裁かれもする正しくて真っ直ぐな理由ですよ。でもそれは人を変えないのです。大胆に言えば神様のお気持をも変えないのです。神様は、心を見られる方、ご自分の心で人を愛し、人を怒り、悲しみ、理屈ではなくて、あなたのためなら人となって死んでも良い、あなたのためなら、神として敬われることも捨ててよいと十字架で汚らしい罪にまみれて死んでしまわれる。それは私たちをご自身の形にお創りになられた神様が心で動かれる、あるいはその心がいつも何を意識しているかで動かれる方であるからです。その心は、いつも私たちへの意識で溢れておられるから、神様は私たちの一挙手一投足に心動かされて、またその私たちを動かしている私たちの心の中身に、心動かされ、喜ばれ、怒られ、悲しまれ、そしてその私たちのための決断をも、そのお心の内になされるのです。あなたが罪の呪いと裁きから救われるために、その罪ゆえに裁かれるあなたの身代わりとなって、あなたのために十字架で呪いと裁きを受けて死ぬから、だからあなたにはどうしても救われてほしいと宣教され、説得なさるのです。

その神様の宣教内容の正しさを理屈で知って説得されたから、私たちは洗礼を受けたのか。違うと思います。私はこのままではいかんと、心が説得され、そしてその私を救って下さる神様に、自分の罪を背負ってもらうしかないと、罪の問題を、頭でわかるより、心で納得したから、あるいは御言葉の説得が心に届いたから、私を救ってください、変えて下さいと、祈って洗礼を受けたのじゃなかったでしょうか。頭では全部理解はできなかったけど、神様はキリストによって私を救って下さると心で信じ、求めたから。

洗礼だけじゃない。人がキリストによって救われるというのは、常に心を抜きにして何かが起こるということはないのだと思います。それをペトロはガチで求めるから、いや神様ご自身が求められるから、正しいことを言って、後は自己責任という、はぐらかしはせず、正しい良心に訴えるのです。あなたはその正しい良心を、洗礼の時に求めただろう、変えて下さい、救って下さいと祈った。だからキリストを信じて、ここまで主に従っても来たあなたはわかるはずだ。どうしてキリストのために苦しむことから、逃げ出したくても逃げないことが、正しい良心にかなって、アーメンと言える御心なのか。あなたの主が、あなたのために逃げなかったことが、あなたの心を捕らえているから。理屈での道徳的な正しさではない、キリストに背負われた者として知っている、背負う正しさを知る者として、あなたは自分に罪を犯して苦しめる人のため、救いと憐れみを与えて下さいと、その人を呪うかわりに祈ってその人を受けとめることが、主の前に正しいと心で知っている。だからそうしなさいと訴えるのです。頭では、そんな人、愛さなくてよい理由を考えるのかもしれません。呪ったっていいじゃないかと思える言い訳が頭を巡るのかもしれません。でも十字架でその私を背負われた主を知る心が、それは正しくない、愛が正しい、神様の十字架の死が正しいと訴えかけてくるから、心がせめぎ合い苦しみながらも、最後は、復活のキリストがくださった正しい良心が勝つのです。苦しみながら、痛みながらも、この人が救われることを求めますと祈るのです。その思いは、自分から出たのではありません。それは復活の主が確かに人を救うしるしなのです。