ペトロの手紙一3章8-12節、エレミヤ書31章15-20節「命の当たり前を求めて」

20/10/25主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章8-12節、エレミヤ書31章15-20節

「命の当たり前を求めて」

先週申しましたように、今朝はほとんど8節のみを説き明かします。ここにキリスト者の生き方のエッセンスがギュッと詰まっている、いや聖書の証しする神様が、すべての人に与えて下さった命本来の在り方が優しく描かれているとも言えるのです。受け継ぐべき命本来の祝福が。

まず「心を一つに」。思いを一つにとも訳される言葉です。そこで何を思うのか。何に心を一つに寄せ合うのか。私たちに十字架で命を注いでくださったキリストの心、キリストの思いを求めてです。

心を一つにと言ったら、考えよりも、むしろ関心を一つに寄せることと言えばわかりよいでしょうか。自分の求めや好き嫌いで自分をも振り回そうとする自分の心を、でも脇に置いて、キリストが求めておられ、イエス様が好きなこと嫌なことに心を寄せる。私もイエス様と同じ好き嫌いで一緒に生きようと、うぶな恋愛心のようなピュアっピュアな心を求めることは、イエス様お嫌いじゃありません。むしろこう言われたのです。心の清い者は幸いだ。その人は神を見る。あなたはわたしの心を見ているのだろう。この心を、あなたにも持ってもらいたいと言われるのです。この唯お一人の主のお心に、皆で心を寄せるのです。

思いを一つにと言うなら、皆でアーメンと言えることと言えばわかりよいでしょうか。自分の考えを押し付けるのでも、あるいは同調圧力に屈して、自分で考えることをやめるのでもない。一緒に無責任なことをして、だって皆やりゆうきと言い訳をするのは、何も一つにはなっていません。むしろ私たちは自分の責任あるいは自分という人間の重みをかけて、アーメンと言うのでしょう。自分の人間としての重み、人格をかけて。キリストが命をかけて下さった救いの御心に、十字架で担われた自分の心と思いを寄せて、兄弟姉妹たちと一つの思いで、アーメンと言うのです。共に御言葉を聴き、共に祈り、共に救いの神様を賛美するのは、そのためでしょう。キリストをくださった神様にアーメンと一つになる。心と思いを一つにするのは、御言葉抜き、十字架の主を抜きにしてはできません。気分だけ皆ワンチームとか言っても、その中身は?と一つの中身が分からないのは、一つではない。具体的な中心、十字架のキリストの御言葉に皆で、はい、アーメンですとお応えするところで、私たち本当に一つやと実感できるのが、この一つだからです。

十字架の主の思いに、心と関心を寄せ、具体的に、主がどうお考えになっておられるのかを御言葉に聴いて、神様と思いを一つにする。このように思い、このように感じ、こう考えればよいのだと。

そしたら見えてくる景色が違ってくるのです。自分の思いと関心から見えていた景色が、同じものを見て、同じ人を見ているのに、それまでの見え方、感じ方、考え方で見えていたのとは違った見え方で、世界が心に飛び込んでくるのです。

一つには、人の悲しみが気になる。あるいは、もっと気になる。無視できなくなる。そのために祈るようになる。だから皆で心を主と一つにすることの次に「同情し合う」という心の動きが言われます。

それは悲しみを心に覚える状況だけでなく、以前なら怒りや不満を覚えて、何でこの人は…と兄弟姉妹に対しても思っていたところで、でもその人の情、気持ちを考えるように導かれるのです。人の弱さ欠点を、でも欠点でなく、欠け、破れとして痛みとして覚えるようになる。それも、キリストの心のもとに自分の心を置いて、主と共に考え、感じ、生きようとする時に与えられる、具体的な恵みの現れでしょう。神の国と神の義を、先ず求めなさい、と主がお命じになられた。つまり、神様のご支配と十字架の愛の正義を、一番に生きたいですと祈る具体的な心の従わせ方が、ここにあるとも言えるのです。

「同情し合う」の直訳は「苦しみ、悲しみを共にする」です。それは続く「兄弟を愛し」の具体的実現の一つでもあります。ほぼ同じ勧めが語られるローマの信徒への手紙12章の言葉で言うなら「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」。主にある兄弟姉妹が分かち合える同じ喜び、また同じ悲しみがあるのです。救いの喜び。それと対をなす罪の悲しみ。十字架の主を知る私たちは、悲しみの中で、不運を嘆くのではないでしょう。単に自分に力がない悔しさに涙するのでもない。むしろ罪に負ける悔しさを思うのです。罪に命が踏みにじられ、罪に汚されて本来の祝福が奪われている罪ゆえの悲惨に、痛みを覚えるからです。

どうして愛に生きられないのか。神様の子供として、ただ恵みとして受け継ぐしかない命の祝福を、どうして人は失ってしまうのか。幸せになりたいと願うのに、どうして自分の思いに駆られて罪を犯して、祝福を失うことを選んでしまうのか。この罪によって引き起こされる苦しみを知らん兄弟姉妹はおらんと思うのです。またその苦しみと悲しみを、十字架のイエス様の前で嘆くことを忘れ、世の悲しみにおぼれてしまう信仰の弱さがあることも、きっと知らん兄弟姉妹はおらんのです。自分の悲しみに捕らえられ、自分自分の自己憐憫に陥る誘惑の強さは本当に強いと思います。

そのためにも、十字架の主から、兄弟姉妹が与えられているのです。献金の時、愛する兄弟姉妹と共に礼拝できて、ありがとうございますとよく祈られるのは、本当にそうだからです。十字架の主の前で、一緒に罪故の苦しみを負って、共に主の前に出てくれる兄弟姉妹が、私たちには必要だからです。信仰がお一人様の信仰ではないことを、苦しみの中で改めて知るとも言えます。一人苦しくて祈りながら、苦しみに押し流されそうになりながら、でもあの姉妹が私のために祈ってくれている、私には祈ってくれている兄弟がいると知ることが、どんなに励ましになるか。場所は離れていても、祈りにおいて共にイエス様の前に出てくれている兄弟姉妹がいると知ることが、どれほど私たちをイエス様のもとに連れて行って、重荷を降ろさせてくれる助けになっているか。

続いて言われる「憐れみ深く、謙虚になりなさい」は、この兄弟姉妹の愛の姿を、もっとも具体的に映し出す言葉だと思います。「憐れみ深く」とは「良い臓器・はらわたの」という言葉で、苦しんでいる人や群衆をイエス様がご覧になられて、その苦しみを体の奥深く内蔵で共に感じられ、苦しみを共にされる神様の憐れみの御業を行われた。それを聖書が「イエスは深く憐れんで」と告げる言葉と、深く結びついた言葉です。

先に読みましたエレミヤ書で「胸は高鳴り」と訳された言葉も、内臓がうめく、子宮が苦しむとも訳し得る言葉です。私たちを愛し、お創りになられた神様、私たちをお産みになられた命の主が、そのお産みになられた命の深みで、苦しみを覚えられて、うめかれるのです。あなたを失うことはできないと。それなら自分が身代わりに失われてもよいと、永遠の御子が人となられて、十字架で私たちの罪を身代わりに負って、失われた者となってくださった。この神様の十字架の深い憐れみ、自分のことはえいと、自分を低くして相手を思う十字架のイエス様の姿に、アーメンと、私たちも自らを低くして、人のため祈り、仕える。その私たちの内に主が認めて下さる神の僕の態度。それが謙虚です。十字架のイエス様の心に思いをはせ、主と一つの思いに生きようと身を低くするその私たちを用いて、神様は世に十字架の救いを証しされるからです。神様が与えて下さった、この救いの喜びを知らない人々もまた命の祝福を受け継ぐために。そのために召された者として、誰もがこの命の祝福に召されていることを証しするために、私たちは、キリストに召され、結ばれて、担われている命を、共に愛して生きるのです。