ペトロの手紙一3章8-12節、詩編34篇「報いの神様を畏れ敬う」

20/10/18主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章8-12節、詩編34篇

「報いの神様を畏れ敬う」

「終わりに、皆」。これまで、召使い、妻、夫と呼びかけられてきて、最後に皆が、主の前に呼びかけられます。皆。例外はない。来週もこの御言葉から、皆に呼びかけられている命の祝福に耳を傾けますが、今朝は、それらの具体的な生き方を、自分の生き方に当てはめて生きようとする時の、最も重要な急所に集中します。つまり私たちはこの生き方を神様の前で、行い生きるのだという命の真実にです。ともすると普段、私たちが意識し損ねて生きやすい、命の真実かもしれません。

私たちは普段、誰を意識して生きているでしょう。先ず自分を、これをせな、これはしたくない等と意識して生きているのは無論です。が、自分の生き方を、人の目から意識することもあります。言うたらいかん悪口を言った時など、人を意識して、しまった!と恥じたりします。

では、そうやって、神様を意識して、しまったと恥じることは、一日で、どれだけあるでしょう。十字架の神様を信じる私たちは、いつも共にいて下さる神様を信じていますから、その神様から私たちに注がれる眼差しを、知らないわけではありません。十字架の愛の主の眼差しが、なのに意識から外れて、全く意識しないまま、だからこその行いをして生きてしまうのも、命の一つの真実ではないでしょうか。

その私たちに語られる命の真実を12節の御言葉はこう教えるのです。「主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

自分で意識していることが、自分の生き方の真実ではない。人の目にそれがどう見えているかを考えるだけでも、真実に足りない。あるいは私たち、こう思うのです。人の目に自分がどう見えようと、そんなの気にしたら生きていけんから、せいぜい少し気にして、もっと自分でどう生きるべきかに集中して、どう私が本当に、リアルに生きるかが、命の大事な問題だと考える。それも命の一つの真実だと思います。でもその命のリアルさは、この世界の一人一人の生き方に注がれる神様の眼差しを意識してのリアルな現実でしょうか。信仰者であっても、忘れたり、脇に置いて、しかも信仰生活さえそうしてしまいやすい罪と弱さがあることを、御言葉は忘れんのです。ここが大事だと。命の真実は、神様の前での真実以外はない。その命の中で行われる善、そして悪に対して、神様が何も報いない、何も行動を起こさないということはないのです。単に神様が共におられて見ておられて、それで終わりではない。だからこそ、悪を裁かれる神様が十字架で死んで下さったのです。そしてその神様を信じて、キリストの名を呼んで祈る者たちに、神様は答え、報いて下さると信じるからこそ、私たちは自分に悪を行う者をも憐れんで、十字架の祝福を祈るのです。神様は人の行いに必ず報いられる神様だと信じるからです。

自分に悪を行なった者に悪をもって、侮辱には侮辱、目には目をと、自分がその悪に報いてやろうと思う時、私たちは神様を何者だと思っているのでしょうか。特に信仰者は知っているからです。十字架の主が、赦しなさいと言われたことを。でもその赦しの代償として言わば払わないといけない、そこでなされた悪の犠牲になることを、何で私が耐えなければならないのかという理不尽に対しても、ただ主は赦しなさいと言われているだけなのか。もしそう思うなら、それは主の十字架の、真実を見損ねているのです。十字架で起こったこと。それは12節3行目で「主の顔は悪事を働く者に対して向けられる」と宣言される、つまり、悪を行う者への、神様の正義の報復だからです。

天の父が、十字架のイエス様に、愛の御顔を向けないで、見捨てて、あなたは悪を行った者として、それに相応しい正義の裁き、報いを受ける者として正義の罰を受ける。あなたは死ななければならないと、世の罪の一切を引き受けられた御子イエス様に対して、悪への報復をなさる方として、顔を向けられた。それは神様が、悪に必ず報いを与えられる正義の神様であられるからです。

そしてそのように御子が報いを受けられたのは、私たちがその代わりに、神様の祝福を受け継ぐ神の家族とされる、幸せな日々を受け取ってほしいからです。それが私たちの、十字架の神様だからです。

その報いの神様に、信仰の顔を向けて信じるのです。自分の行った悪の報いが、キリストに背負われた者として、赦された者としての信仰の顔を、正義の報いの神様に向けて、あなたこそ、義なる、正義の報いの神様ですと、畏れ敬って、信じる。そこに十字架の神様を信じる、信仰の急所があるからです。

だからじゃないでしょうか。その報いの神様を私たちの顔が見ないで、むしろ悪ばかり見たり、痛む自分に顔を向けている時には、人は自分で報いたいと、うつむいた顔で思うのじゃないでしょうか。

でもその悪が、報いられないままであることは、決してないのです。悪は必ず報いられます。自分では悪と思っていなくても。聖なる神様の眼差しの前で、それは悪だと、御言葉でハッキリと、悪だと告げられている全ての罪が、報いを受けないまま残ることはありません。もし一つでも残るなら、それは神様など存在しないということです。自分の良心と人の目を気にして好きに生きればよいということです。信仰もそれに役立つものとして、単なる心の支えとしての信仰でかまんのです。もし悪が神様によって報いられることがないのなら!

けれど、その悪の報いを引き受けられるために人となられた三位一体の御子、主イエス・キリストによって示されたのは、見逃される悪などたったの一つもないということです。一つでも見逃すのは、正義のない卑怯な人間のすることであって、正義を完全に貫かれる真実なる神様が報いられない悪は一つもない。それが、十字架で人間の悪の報いを引き受けて死なれた神様の、信じるに値する真実なのです。

そして、そのことで私たちが信じ、毎週告白する神様の真実は、その悪の裁きを引き取って、愛による正義を全うされたお方こそが、私たちに対する一切の裁きの権限をも引き受けられて、生きている者と、死んでいる者、全ての人間を裁かれる方であることです。主は、わたしがその悪を裁く、わたしの正義に従って悪に報いる、あなたが苦しめられている悪も、また人を苦しめる悪も、報いられないままで残る悪は一つもないから、あなたは、そのわたしを信じ、わたしの顔が、あなたから背けられることはないことを信じて、わたしの前に生きなさい。わたしはあなたを救う神。それがあなたの命の真実だと主は言われる。十字架の正義を全うされる主が言われるのです。

だから、悪に対して悪を抱かず、かえって、その人にさえ祝福を祈りなさい。悪への報いは、十字架の主にお任せして、主を真実にあなたの主としてあがめなさい。それがあなたに本当の幸せを与えるから。悪をもって報いる生き方には幸せがない。あなたには幸せになってほしいと神様が言われた御言葉が、10節以下の詩編の言葉なのです。

「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。主の目は正しい者に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

主が目を注がれて、耳を傾けて、心を注ぎ、命まで注がれて、わたしの命に生きなさい。わたしの前で生きなさいと呼んでおられる。だから私たちも、はい、と顔を上げて、毎日を、神様の御前で生きるのです。