ペトロの手紙一3章7節、イザヤ書59章1-2節「従うのは夫も全く同じ」

20/10/11主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一3章7節、イザヤ書59章1-2節

「従うのは夫も全く同じ」

祈りが妨げられる。それは夫も妻も同じく、その人と神様との間に、愛を妨げ、信頼の関係を妨げる、見過ごせない何かがある時に、起こります。したらいかんことをした。やるべきことをしてない。それが愛を妨げ、信頼を妨げて、心の通う対話が閉ざされる。祈りにおいてそれが起こる。でもそれは、夫婦の間に、神様から見て、見過ごせない妨げがあって、それを放置させないため、取り除かせるためになさるのです。特に夫に対して。

この御言葉から言えば、妻を理解しようとせず、またそれ故に、妻を尊び敬うことの、反対をしている時に、祈りが妨げられるのです。

言わば神様が、それがあなたの生き方の態度なら、あなたにもわたしは欠点を見出し、それに応じてあなたに向き合おう。愛の関係に従ってではなく、恵みと憐みによってではなく、あなたが何をしたか、何をしてないか、またできてないかを、あなたの価値として、行いであなたを値踏みして、あなたがそんなこともできないから、祈りを聴く価値もないと値踏みするが、それで本当によいのか。それがあなたのしていること、しかもあなたと一体である妻に対して、していることではないかと問われるのです。妻に対するあなたの態度、考え、生き方を、わきまえ直して、わたしの前で、妻と共に生きなさいと。

「尊敬しなさい」と訳された言葉は、ふさわしい価値を配分しなさいという言葉です。例えば市場で真珠を買う時、ふさわしい値をつける。それが人の価値、尊敬に値する尊さをも言うようになった言葉です。

では妻の価値、あるいは人の価値を、どのように神様は見ておられるのか。そこに私たちも、その人のふさわしい価値を見出すのか。どこにその人にふさわしい価値を見出して、あるいは見損なって、尊敬し、逆に馬鹿にして生きてしまっているのでしょう。何かしているから、何かしてないから、何ができないから。そんなことで人の価値が決まるのでしょうか。この世では、自分を誇りたいこの世ではそうでしょう。でも人をご自身の形、神の形に造られた神様にとって、人の価値、あるいは尊敬されるべきその人の尊さは、その人の行いにはありません。

無論、行いは評価されます。ただし、裁きを受ける対象としてです。その意味で評価されますが、それと人の価値とは関係ありません。行いを人と比べて評価することは、一切神様と関係ない、朽ちる評価です。

人は誰もが、神様から命の恵みを受け継いでいる。それだけで価値がある。尊敬に値するのです。神様が、その人に、人としての価値を与えられているからです。

その神様に従い、神様の価値観に従うのか。神様から与えられた命の価値、命の教えに従うのか。それとも自分を誇るこの世に従うのか。

今朝の御言葉のキーワードは「同じように」です。1節でも言われます。そこで妻は、ただ夫に従いなさいと言われるだけではありません。上の段で、召使いたちが、主人に従いなさいと言われていたのと「同じように」従いなさいと命じられるのです。そのことで主人が救いに導かれることが、善であり、御心だから。その人のためにも、天の父は御子を十字架につけられたから。その人の罪をも負われたのだから。だから「同じように」妻もそうするのだと。もしそこで、他人事やと思って、ぼんやりしていたら、夫も「同じように」と言われて、え?何を?と、態度が暴露されてしまう言葉だとも思います。「同じように」。

夫には、従いなさいとは言われず、「わきまえて生活を共にし」「尊敬しなさい」と命じられます。が、やはり従うのです。「同じように」愛をお命じになられる神様に、はいと身を低くしてお従いする。エフェソの信徒への手紙での御言葉で言えば、キリストが教会のために命を捨てられたように、夫も自分の命を捨てて、妻を愛しなさいと言われている、そのご命令に、同じように従うのです。

同じように、同じように、と繰返されるのは、従いたくないからかもしれません。従うより、相手の上に立ちたい。あるいは従うほうが自分で責任を負わなくて済むので楽という、責任逃れ、責任の重荷を避けるために従うということもあるのかもしれません。もっとも、上に立ちたい、勝ちたいという場合も、勝ったら相手に責任を負わせられるから、お前のせいだと言いたくて、勝ちたいということもあるのです。

責任感から上に立とうとする人は少ないのじゃないでしょうか。特に愛する責任感から。そのことを、夫に確認するのです。あなたの祈りはどうなっているか。夫婦の生活を事務仕事のようにやり過ごす誘惑を、神様との祈りの生活から問うのかもしれません。祈りの生活に具体化する神様との関係、愛の関係がどうなっているかによって、わかることがあるからです。もし祈りが妨げられているなら、関係をおかしくさせ、対話を妨げている罪があるのではないか。それは神様との関係も、夫婦関係も同じです。妻との生活は、神様との祈りの生活に反映されることを言わんずつシレっと通り過ごすことを、十字架の主はなさらんのです。関係の破れは、通り過ぎられないからです。

「同じように」と繰返し言われていること。それは、あなたも神様に向き合い、主を畏れ敬う態度で、御言葉に従いなさい、そして、愛する責任、敬うという責任、共に生きる責任を負って、十字架の愛の主にお従いしなさい、あなたも同じように痛みを負って、という招きです。

「生活を共にし」とは、家や家計を共にするだけではなく、あるいは財布が別々であっても、私たちに愛の責任を問われる神様の前で、共に生きようと向き合う時に初めて見えてくる相手の価値を、背負って生きるということでしょう。「命の恵みを共に受け継ぐ者」としての、相手の価値、そして自分の価値は、純粋に受け継ぐもの。主からそのまま頂くしかない、受ける価値です。自分の力や手柄で勝ち取る尊敬ではない。なのに勝つ、勝ち取るという考えを、自分の生き方に入れるから、命がおかしくなるのです。恵みがわからんなるからです。命は恵みじゃないと思う態度になって、自分の力に頼る生き方、自分の力を数えて、人と比べる生き方になる。自分のほうが偉い。自分のほうが強いと、野蛮な力比べをする生き方の犠牲に、妻はされてしまいやすい。

「妻を自分より弱いものだとわきまえる」とは、夫がそうした自分の生き方に潜む、野蛮な力比べの欲望にこそ、勝つということです。妻のせいにして逃げないとも言えるでしょうか。アダムの真似をしない勇気をこそ、十字架の主に祈り求めるとも言えます。恵みのうちに妻の尊さを見出すよりも、自分との力比べで妻を値踏みして、自分の価値を自分で評価したい愚かな誘惑、あるいは、そうやって妻も同じことをして、互いに相手のせいにして誰も愛する責任を取ろうとしない罪の連鎖は、キリストの名を呼んで、祈って断ち切ってもらうしかないのです。その祈りは、十字架の主イエス・キリストの名を呼んで、罪の赦しを求める祈り、自分にはできません、主よ、憐れんでください、やり直したいのです、神様の御心に従いたいですと、恵みを求めて悔い改める祈りは、そのために死なれたキリストの名の故に聴かれるからです。誰も責任を取ろうとしない、愛の責任、その名を愛と呼ばれる神様の、愛の形に造られたのに、誰もその責任を果たせない、罪を犯す人間の愛の責任を、十字架で取られた主が、わたしに従いなさい、愛の命を、やり直そうと招かれる、恵みの命へと、はいと再び歩み出そうとする私たちの祈りを神様は決して妨げられません。そこにあるのは、恵みなのです。愛の命に共に生きられる恵み。その道を、共に主の名を呼んで歩むのです。