ペトロの手紙一2章18-25節、イザヤ書53章「人を癒す主の愛の足跡」

20/9/27主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章18-25節、イザヤ書53章

「人を癒す主の愛の足跡」

先に読みましたイザヤ書53章からペトロは何度説教をしたろうかと想像します。何度も何度も、そこに十字架のイエス様を思い、その苦しみを思い、でもその苦しみを、主は私のために負われたのだと、癒しを覚えながら語ったのじゃないでしょうか。

当時、召使い、あるいは奴隷として働いていた兄弟姉妹のために語られた御言葉ですが、今で言う雇用関係に当てはめてもよいと思います。あるいは上下関係。学校でもあるでしょう。どこでもある。その関係の中で、不当な扱いを受けて苦しむことを、知らない人がいるだろうかとも思います。自分の罪を棚にあげて、不当な扱いだと憤るのではなく、つまり罪でなく、善を行なっているのに、苦しめられる。特にキリスト者であれば、御言葉に従って、主にお従いするように仕えているのに、ののしられたり、打ち倒されるような仕打ちを受ける時、どうするか。それでも耐え忍ぶことが御心なのだとわきまえて、踏みこたえなさいと言うのです。

今朝の御言葉は、そうしなさいと勧める前半と、その説得をする21節からの後半に分けられます。おそらくペトロも、わかっているのです。御心ですと言われても、はい、と簡単には受け入れられない。どこかで納得できない。泣き寝入りをさせられるような、何で私だけと思いたくなる心の苦しみが生じることを。ののしり返したくなるのです。脅せるなら脅したくなるし、時には心の中で殺したいとさえ思う。憎むことは良くない、罪だと思いながら、それでも憎みたい自分を持て余すことがあるのではないでしょうか。

だから、でしょう。21節以下、言葉を重ねて、説得に努めるのです。でも、他人事のような正論を、上からかざすのではなく、ペトロ自身、自分の良心の痛みと共に、心で知っている、キリストが苦しまれたのは何故かという、救いの御心の話を、改めて語り聴かせるのです。

キリストもあなたがたのために苦しみを受けたのです。それは私たちがその足跡に続くようにとの、模範を残して下さったのですと。十字架のもとに、改めて皆を招き、召しているのが今朝の御言葉です。

「あなたがたのために」という言葉は、あなたがたに代わって、身代わりにという言葉です。そこで一緒に見つめようとするのは、私たちの罪を、主が苦しみながら、耐え忍ばれたこと。自分の罪の姿です。自分の罪が見えなくなる時、人の罪が大きく見えるのです。目が自分に嘘をつき、心が嘘に騙されて、人のした悪で心が支配される時も、でも真実は変わりません。その私たちの代わりに、キリストが苦しんで下さったから、私たちは既に負われた自分の罪を、ごめんなさいと悔い改めて、新しい人として歩んでよいのです。必ず裁かれる自分の罪を、しっかりキリストの苦しみに見ることで、魂は癒しを得るからです。

無論、人の罪を、それで思わなくなるわけではありません。その罪による痛みが激しければ、どうしても憎みたくなる思いが避けられない時もあります。だから詩編にも報復を求める祈りが、いくつもあります。なされた悪に対して正義を求めて、正しい裁きを求めることは、正しいことです。ただ、その裁きを、人は自分で行いたい。自分で報復したいのです。でも、できません。なら力があれば、できるのか。違います。罪があるから、できないのです。全ての罪を裁かれる神様の前で、自分は裁く者ではなく、裁かれる者だとわきまえる。そこに癒しが始まります。だから詩編の祈り手は、神様に、悪への報復を求めるのです。

23節で、イエス様も、正しくお裁きになる方にお任せになったと告げます。生きている者と死んだ者とを裁かれるお方が!です。そこに神様の救いが現れます。裁かないのが救いなのじゃなくて、完全に裁くから救われるのです。つまり、神様は永遠の御子を人とならせて、全ての人の罪を身代わりに負わせて、一切の憐れみなき、完全に正しい裁きを、あなたの死の苦しみによって裁くと、御子を裁かれた。その救いの裁きである十字架を担うという御心に、主は、はいとお従いされたのです。だから、十字架で担われていない裁きは一つもないから、だからあなたに罪を犯す人の裁きはわたしに任せて、あなたは罪に対しては死んで、義の道を生きて行きなさいと主は言われるのです。

十字架で示された、神様の義の道を、21節では「模範を残された」と言い換えます。これは、子どもたちが字の書き方を習う時の、お習字のなぞり書きのことです。その上をなぞって字の書き方を覚えるように、イエス様の足跡の上を踏んで、不当な苦しみを耐え忍び、踏みこたえる生き方を覚えていく。私の罪を負われた主の足跡に、ひと足、ひと足、自分の苦しみを重ねて、この苦しみも、主は耐えられたのだと、そこにイエス様の苦しみの足跡を見るのです。この痛みは、罪を負われた痛みだと、私の永遠の救いのために耐えられた足跡だと、イエス様の思いの足跡をもたどるのです。何で私がという問いの答えを、主はわきまえて歩まれた。召されたからだと。この苦しみを負うことで、救いの御心がなるのだと、イエス様が思って耐えられたように、自分を苦しめる人の救いを思いつつ、そこに神様の御心があると、主の足跡を踏む。ここに神様を信じる私が、その神様の前で不当な苦しみを負う、唯一の理由があるからと、罪人の救い以外に、神様の御心はないことをわきまえて、その召しに改めて応えるのです。何で私がと心が折れて、不当な苦しみの答えを聴きたい時、この神様の御言葉を聴くのです。あなたが召されたのはこのためだ。キリストの救いがなるためだと。

それが24節で言われる「罪に対して死んで、義によって生きる」ということです。主の愛に生きるのです。自分の十字架を負って、十字架の愛の主イエス・キリストに従う歩みを、その愛の足跡に自分の足を一歩一歩重ねながら、主の弟子として歩んでいく。

キリスト者の受ける不当な苦しみを描いた、遠藤周作の「沈黙」で、もっとも印象深いクライマックスと言えるでしょうか。踏み絵の板に刻まれたイエス様が、踏まれて、もうスベスベになってしまったイエス様が、踏みなさい、わたしはそのために来たからと、宣教師に語りかける場面があります。主の足跡を踏むのも、その足跡が苦しみを支えるのです。どうして私がと不当な苦しみを受ける時、でもそこでイエス様を思い、私たちの救いのために御子を下さった神様の救いの御心を思って、信仰の忍耐をもって踏み出す足の先を、もうイエス様が先に踏んで下さっているのです。そして、ここに、あなたの愛の足を踏み出しなさい。わたしがその足を支えるから。その愛を、苦しみを担える愛として、わたしが強くするからと、その名を愛と呼ばれる十字架の神様が、一緒にその苦しみの中に立って招いてくださるのです。

25節で「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところに戻ってきたのです」と言われるのは、そこまでもう私たちがキリストと一つに結ばれ、キリストのものとされ、永遠の足場が確立されているということです。私たちは自分がどこに立っているのか、知らないわけではないのです。私たちは皆、主イエス・キリストが立っておられるところに、一緒に立たせていただいて、今、一人一人、キリストのもの、キリスト者として召されて立っているからです。何があっても、私たちを離れず、私たちを手放すことも見放すことも決してなさらない、永遠の羊飼いの十字架の愛のもとに、召されて私たちはもう立っている。だから踏み出していけるのです。主が招かれる愛の道へと、主の足跡に負われ癒されて歩むのです。