ペトロの手紙一2章11-12節、詩編119篇105-112節「仮住まい跡をにごさず」

20/9/6主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章11-12節、詩編119篇105-112節

「仮住まい跡をにごさず」

世の中に暮らしておりまして、あ、私はキリスト者ながやと、気づかされると言うか、自覚してしまう時、ないでしょうか。

例えば若い人たちであれば、恋バナ、恋愛話に花が咲く時。あるいは夫婦の問題や、家に自分の居場所がなくてという話なんかをキリスト者でない仲間たちでして、ああ、もうそうなってしもうたらねえ…の話の続きが、え?というアドバイスだった時。あ、自分はキリスト者だと、一種の疎外感というか、自分は違う価値観に生きていて、ついていけないと、一緒に居ながら、あるいは一緒に笑いながらもポツンと感じて、神様を思う時、イエス様、と名を呼んで祈りたくなる時が、あるのではないかと思います。

御言葉は、それはあなたが、この世にあって言わば旅人、仮住まいをしている、神の民だからだと告げるのです。「異教徒の間で」と言われると、まあそうにゃあ違いないけど、異教徒!言い方!と思ってしまいますが、普段は異邦人と訳される言葉。直訳は、もろもろの民、諸民族という言葉です。でもそれは、ユダヤ人以外のもろもろの民という民族性を言うのではありません。ユダヤ人であろうと日本人であろうと、神様が、わたしは主、あなたの神だ、あなたはそのわたしの民、神の民かと問われて、はい、そうですと信仰告白する神の民は、どうしたってこの世にあって自分たちは、違う民だということを自覚せざるを得んということです。

けど、この違和感が!ものすごく重要だから、それをむしろ自覚することを教えて、この手紙を書いた使徒ペトロは、その書き出しからここに至るまで繰り返し、あなたがたは、この世に仮住まいしている者たちなのだと、敢えて強調したのです。何故なら、それが理由で、つまり、お前らは俺たち私たちとは違うことを信じて、違う生き方をしゆうと、昔も今も教会は迫害されやすく、その迫害を避けて同調圧力に屈しやすい誘惑が常にあるからです。ペトロ自身、同調圧力に屈しやすい弱さを持っていましたから、よくわかるのです。お前、イエスの仲間だろうと問われて、いや違うよと誤魔化したり、初代教会の代表になって後も、訪問先の教会でユダヤ人同士固まって、異邦人キリスト者たちとはご飯も食べんようになってパウロに怒鳴られたり。圧に屈しやすい。

その弱さを知っておればこそ、私たちはこの世とは違う価値観に生かされていることを、胸に刻んで、魂に刻んで、自分の名札にも、私はこの世で仮住まいをしている神の民だと、自分の生き様に刻みなさいと、この世に同調する誘惑を、避けるよう訴えるのです。

前の頁でも、欲望と同じ形になるなと注意されました。私たちの肉はこの世の価値観や欲望に、うんと影響されやすいのです。霊である神様の御言葉の方向より、霊に逆らう肉の欲望は、自分に楽なほうを選ぶ。あるいは肉が楽しいと思う方を選ぶ。恋愛を考える時も、聖書の教える結婚のみでの関係より、性的に楽な方に流されやすい肉。家庭での関係や職場での関係、教会でも、世のやり方でやった方が自分に楽だと思うことがないでしょうか。言い訳が心をめぐり、楽で楽しい方に逃避することを欲望してしまう。その欲望を知っているペトロは、その欲望からこそ、逃げろ、避けろ、肉の欲望から距離を置けと言うのです。アダムとエバが誘惑に負けたのは、近づいて行ったからです。そして蛇に耳を貸してから木の実を見たら、自分を満たすように思えたのです。

そういう蛇が潜んでいる映像コンテンツや雑誌その他と生活しているなら、遠ざかれ、求めるな、距離を保て。それが主のご命令です。

その代わりに、自分が持っている時間、お金、力を用いて実際に行う良い生活、美しい生活を、この世の中で営みなさい。立派な行いと訳されると、気持ちがひるんでしまいますが、良い、あるいは美しい生活をしなさいという言葉です。無論、この世が好きなキラッキラする美しさではなくて、その生き方や態度、言葉に、心からアーメンと言える、愛の美しさと言えばわかりよいと思います。キリストの愛に、アーメンと言える、その愛にお従いする生き方に、命の美しさは現れるからです。

例えば、人格を否定する醜い言葉や態度の代わりに、人格を尊ぶ言葉や態度を見て、人は美しいと思うのじゃないでしょうか。

人を悪く言ったり、自分のために生きればいいんだよというアドバイスが当然のように出てきそうな状況で、あるいは上から目線での、愛の正論が出て来そうな身構える状況で、私たちは違う言葉を語るのです。十字架を知る者として、自分もまた与えられた赦しと恵みの言葉と態度を、その人のために捧げるのです。私も神様に憐まれなかったら生きていけない罪ある者だけど、その罪を赦して下さる神様の愛の美しさに、私は生きていきたい、あなたにも生きてほしいと、愛から逃げないで、イエス様から求められる愛の十字架を負って自分を捧げてしまう美しさは、いつか届くのです。その愛が、御言葉によって私のもとに来た愛であるのなら、聖霊様が届けてくださった十字架のキリストの赦しの愛なら、この私たちの救いを目がけて、神様から出て私たちに与えられた愛であるなら、その愛は神様が責任を持って、その神の愛のなすべき働きをなさってくださいます。

それが報われる日を、だから御言葉は訪れの日と呼ぶのです。私たちの愛の生活は、本当に美しいのだろうかと思えることばかりのようにも見えます。報われないのは、愛がなくて楽ばかりしているからじゃないかと、心が内向きになる時、愛しても、勇気を出しても報われなくて、私、損ばかりしていると思う時だってあるかもしれない。それでも主が自分自分から目を離れさせてくださって、キリストにのみ希望があるのだからと、御言葉によって捕らえて下さって、赦しに立たせて下さる。自分ではなく、主を信じ、十字架の愛を伝える生き様から逃げないで、キリストの愛と憐みを信じる生き様に献身させて下さる。この美しい愛に生かされる主の僕のもとへと、主が訪れて下さって、すべての御業を時に適って美しく行って下さる主が訪れて下さって、愛する我が子よ、あなたがわたしの愛を携えて愛したこの兄弟この姉妹を、ついに捕らえる日が来た。よく頑張ったと、報われる日が来るのです。

かつては神の民でなかったが、その人が今は神の民であると言われる日が、かつて、私たちにも来たように、きっとその人にも、主が訪れて下さって、恵まれ与えられる。

その日をもたらされる主を信じて、今日も主の愛に生きるのです。