ペトロの手紙一2章7-10節、出エジプト19章1-6節「このために選ばれた民」

20/8/30主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章7-10節、出エジプト19章1-6節

「このために選ばれた民」

「かつては神の民ではなかったが」。ならば、です。まだ、キリストを信じておられない方々に対して、この人は信じないと思うのは、自分の救いを棚に上げているのです。むしろ、自分が今、神の民の中にいるのは何故なのか?自分で選んだからか?本当に自分から始まったのかと、御言葉に襟を正して、主を求める時、「かつては神の民ではなかったが」という言葉に、私たちは驚くべき光を見るのだと思います。

自分を棚から降ろして言うと、私は選ばれるなんて嫌でした。自分で自分を救うと。聖書を全部理解して全部に納得したら、クリスチャンになってもいいと思っていました。他の宗教も全部学んで、その上で俺はキリスト教にすると、自分でキリスト教を選ぶのだと思っていました。案外、多くの人がそう思っているのではないでしょうか。

因みに私は結婚する前も、俺が君を選んだという趣旨のことを、結婚する前の妻に言ったら、違うよ、私が幸生君を選んだんだよと言われ、何か腹立つと思ったことがありました(笑)が、今はわかります。自分で選んだと思っていることの、何と不確かで危うく、無様なことか。

だから牧師として何度も結婚式に先立つ準備会をしてきましたが、必ず同じことを言うのです。何故、教会では、神様の前に誓わせるのか。それは私たちが誰かを、あるいは神様を、自分で選んだのではなくて、神様が私たちを選ばれたのだから、相手を愛することも、自分で決めたのではなくて、愛しなさいと神様が選ばれたのだから、だから愛せるのだと。愛をあきらめたくなる時も。自分にはもう愛がないと思う時も。そんな小さな自分の愛で、そんな小っぽけな自分によって、大切な関係を左右してしまうのではなくて、この関係を選ばれ、互いに愛しなさいと選んでくださった、大きな神様の愛に寄りかかって、その大きな愛を信じて、小さくても愛の生活を営むということが、選ばれて結ばれるということだからと。信仰生活、教会生活も同じです。

自分で選んだと思う自負の裏側に潜んでいるのは、じゃあ選んだ関係をやめることもまた自分で選べるという、自分が!という態度、何でも自分で決めるという自己中心の欲望でしょう。何でも自分から、自分が原点、出発点で、自分の世界を動かすのは自分だという、小さな自分の世界の中に、でもある日、自分から出たのではない言葉が飛び込んで来て、あれ?と思うのです。ないですか。御言葉の大きさに、まるで自分の世界まで大きくされたような、その新しい世界に、神の言葉に生きる世界に身を置き始めると、光までも、大きくなってくるように感じる。その光は、出所が違うのです。神様から出て、御言葉に生きる人々を通して、自分も同じ光のもとに導かれていく光。具体的に言えば、優しさや、清潔。純粋さ。真実。尊敬。愛。そうした、美徳の光とも言えるでしょうか。もう使わない言葉かもしれませんが。

今朝の御言葉9節の4行目で「力ある業」、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を」と訳されたのが、美徳と訳しうる言葉です。素晴らしさとも言える。素晴らしい御業をなさる神様の美徳。でも単に美しいのではない。何故なら、主の素晴らしさを味わう御言葉に生きる人々を通して、自分の汚れや、罪の暗闇が、光に照らされて見えるということも起こるからです。光だけでなく、暗闇も見えるようになる。しかも自分の暗闇、罪を。

でもそこが急所です。そこで大事なのは、今まで見えなかった、あるいは見ないようにしていた自分の暗い罪や汚さが見えるようになったのは、何故かということです。それは愛の光の神様が、その罪から私たちを連れ出されるために私たちに見えるようにしてくれて、御言葉によって、こっちに来なさいと呼びかけて下さっている救いの御業が起こっているから、だから見えるのです。

御言葉の光に照らされるという言い方もします。またそこで御言葉につまずくということも起こり得ます。御言葉に照らされた自分の汚さを見て、自分を守ろうとするのが人間です。言い訳をしたくなるのです。

でもそこでこそ、人はキリストに出会うのです。御言葉を聴くというのは、そこで自分を本当には守れない言い訳の代わりに、本当に私たちを守ってくれる、キリストの言葉を聴くことだからです。キリストが、あなたはその罪と一緒に滅びてくれるな、わたしがその罪を引き受けて死んだからと、言い訳なんかでは守れない私たちを守る御言葉を語って下さる。わたしがあなたを守る。わたしはあなたを罪に定めないから、わたしのもとに来なさいと。教会が聴き、そして語るのは、それ以外の言葉ではありません。教会は、この御言葉によって生まれ、また御言葉に生きることによって、「かつては神の民でなかった」人々が、新しく、神の民とされて救われるために、先に選ばれた民なのです。

その選びに歩む中で、人が「御言葉を信じない」場面にも出会います。先週少し説き明かした8節で、キリストにつまずくのは、実は御言葉を信じないのでつまずくのであり、それは定まっているのだと言いました。「御言葉を信じない」と訳された言葉は「御言葉の説得を受け入れることを拒む」という言葉です。わたしのもとに来なさいと招かれる十字架の主の言葉に、行かないと拒む。その御言葉への拒みが自分をつまずかせて、キリストのもとに行けない。

キリストを信じられないというのは、その意味では、二つあるように思います。一つは御言葉を聴いたけど、これを拒むから、その御言葉が証しするキリストにつまずいてしまう。それは神様の定めだと言うのです。御言葉が単に救いについての情報なら、その情報を受け入れるか、受け入れんかは、人間が選ぶのです。単なる情報なら。でも御言葉は、生きておられる神様の言葉です。その言葉の向こう側でキリストが実際に招いておられて、あなたはわたしの言葉を受け入れるかと問うておられる。その神の現実が、御言葉にはある。それが神の言葉です。

もう一つは、御言葉を知らないから、信じられないのです。キリストという言葉は知っていても、それが誰だか、御言葉から知っているのではなくて、まったく自分の勝手なイメージや世の中の勝手なキリストのイメージで、そんなんは自分と関係ないと思って信じない。つまり本当のキリストを知らないからという理由で信じられないことのほうが多いのじゃないでしょうか。自分と何の関係があるか知らないから。信じる以前に、関わりがない。譬えるなら、人見知りの人が、よそ者に対して偏見を持ってしまうように。キリストを、よそ者だと思って距離を置くこと、あるのじゃないでしょうか。県外ナンバーの車に石を投げるように、よそ者のキリストを伝えられることに対して、関わりたくないと、私には関係ないと思うことは、多いと思います。

だから、どう自分と関係があるのかを伝えるのです。実際にキリストとの関係に生きている自分の命を通して。例えば、何故、礼拝に行くのかを、自分のためにも言葉にしてみて下さい。その通りだと、自分でもグッと来るんじゃないでしょうか。また、どのようにキリストが私を光へと招いてくださり、じゃあちょっとと、礼拝に行くようになったか。礼拝で、どこに光を見て、実際にキリストの言葉に、はいと従って洗礼を受けるに至ったか。私たちは一人一人が、この9節10節の御言葉を、自分と主の実際の関わりから具体的に説き明かすことができるのです。そしてもし言葉が通じなくても、あきらめる必要はありません。かつて神の民でなかった私たちこそ、決してあきらめない十字架の愛を知っているからです。だから御言葉に生きる。神の民はそこに起こるのです。