ペトロの手紙一2章4-8節、詩編118篇22-29節「人からは捨てられても」

20/8/23主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一2章4-8節、詩編118篇22-29節

「人からは捨てられても」

この手紙が書かれた当時、教会はローマ帝国の迫害の不安の中にありました。皇帝が許可した公認の宗教をやるのはよいが、キリストを信じる者は迫害してよいと、教会またキリスト者が社会からはじき出されることが、その社会では、だってそうじゃいかとなっている社会。それが嫌なら、自分らと同じようにしたらえいじゃかと。

最近の日本で使うようになった言い方だと、同調圧力。どの文化でも時代でも、自分たちファーストという人間の闇は深いのです。今だに、感染した人が、その地域で生きていけなくなり、家族ごと引越しを余儀なくさせられる圧力があることを聞いて耳を疑います。実際に地域から捨てられてしまう。腐ったミカンでも捨てるように。

そこまでではなくても、私たちがキリストを信じているが故に、自分が置かれている社会から圧力を受けて、同調しないと捨てられるという不安を感じることは、やはりあると思います。例えば子供でも、日曜の朝は礼拝やきと友達に言って、日曜日に誘われなくなったことに、もう2メートルどころではない社会的距離を感じて、自分は仲間のグループから捨てられているように感じることがあるかもしれません。

先週、教会の祈りに支えられ、西日本教会青年同盟の夏の献身修養会を祝福のうちに持つことができました。そこである神学生とビデオ電話で個人分団の時を持ちました。その神学生は清和のようなミッション・スクールの出身で、自分は生まれた時から教会にいて、洗礼も受けていたけど、友達に伝道することはできなかったと言いました。いや最初に少ししてみたのです。でも自分では当たり前だと思って言っていることに、距離を置かれて、へ~○○ちゃんはクリスチャンだからそう考えるんだよねと、何を言っても、クリスチャンだからという壁を立てられ、いきなり距離ができて、対話ができなくなる。距離を置かれる。そしてその神学生はこう言いました。女子中高生の頃の私には、グループに入っているということがすごく重要で、グループから外されると生きていけないと思ってしまうほどだった。それで私は皆と合わせるようにして明るいキャラで頑張って、家では疲れて暗かったと。聴いていて他人事ではないと思いました。これは女子中高生だけに限るのでしょうか。

距離を置かれて、拒まれて、それまでとは別扱いを受ける不安。自分の居場所を失ってしまう恐れとも言えるでしょうか。その恐れまた不安から、自分がキリスト者であることを言い出せないということも、特に同調圧力の強い日本では、おそらく少なくないと思います。

そして勇気を出して、礼拝に誘ったり、私実はクリスチャンでと打ち明けたのに、距離を置かれてしまい、辛い気持ちになって、もう礼拝に誘うことはしないと思うことも、きっとあるのだと思います。

今朝の御言葉は、そうした不安や辛い気持ちになる私たちを励まして慰めを与える言葉です。人々との関係において、キリスト者であるが故に辛い気持ちになる私たちが、その辛さの中、不安の中で、一体どこで真実の慰めを得ることができるのか。その私たちを、信じる者としてくださったキリストの慰めのもとに来る時ではなかったか。信仰ゆえ辛い思いをしたり、神様の愛を伝える勇気を失って不安にさえなるような私たちを、それでも、どんなことがあっても、決して私たちを捨てない、決して私たちを離れることなく、距離を取ることをなさらないキリストの慰め、十字架で全てを抱きとめてくださる救い主イエス・キリストの慰めによって、私たちは、心安んじてきたのではなかったか。この主のもとに来なさいと御言葉は優しく招くのです。

そして私たちは、そのキリストに結ばれたキリスト者だからこそ辛い目に遭うのだし、でもそれは信じているからこその辛さであって、あなたがキリストを信じているということは、あなたを失望させることではないのだと言うのです。直訳すると、おとしめられ、恥ずかしい屈辱的な思いをさせられることではない。むしろキリストはあなたにとって、掛け替えのない存在、あなたに本当の価値を与える方ではなかったか。神様ご自身が、あなたをわたしは失いたくないと、そのために人となられて身を差し出され、ご自身の命と引き換えにあなたの罪を身代わりに引き受けて、あなたを救ってくださった。あなたは高価で貴い、わたしの愛するものだからと、十字架で身を投げ出してくださった。それが、あなたと世界の造り主であられ、救い主であられる、あなたが信じている主イエス・キリストではないか。

そのあなたが、キリストのことで辛い目に遭うのは、あなたが信じているからと言うよりは、むしろと、ここから来週の御言葉に向けて続く説得に御言葉は入っていきます。同調圧力が気になると言いにくいことを、けれど大胆にこう言うのです。それは御言葉を信じない人との間に摩擦が生じてしまうからだと。そして、それを、ここが急所ですけど、信じない人を責めるようにして、その人のせいだと言うのではなくて、どうしてもそうなってしまうのは、それが神様の聖なるご意志の中で、あるいは聖なるご性質のゆえに、そう定まってしまっているからなのだと。これは、詳しくは次週説き明かしますけれど、生きて働かれる神様の御言葉を信じるか信じないかというのは、人間の側で好きにその結果を選べるというような、神様抜きのことではないのです。罪を犯したら裁かれるという結果を、人間が選べないように。神様の聖なるご存在の故に定まっていることを、恐れることなく無理を通せると思う私たちの罪の暗闇のような恐ろしさこそが、ここでは神様の光と対比されて強調されていると言ってもよいのです。

そしてこの御言葉の励まし、説得が続いていくのは、次の9節2行目の一番下から読みますと「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」と、御言葉の意識は、いや、この御言葉を語られる生ける御言葉であられるキリストの思いは、まだ信じるに至っていない人々もまた、十字架の驚くべき愛の光の中に招かれているのだからと、まだキリストを信じていない世界の救いに向かっていくのです。あなたはその光を、自分のこととして知っているじゃないか。自分自身の罪の暗闇をもまた知っているではないか。そこから救われるのだと。その罪の暗闇と裁きから既に救い出されたあなた方は、この人々にも、御言葉が伝えられるためにこそ選ばれているのだから、不安になっても、立ち止まらなくていい。あなたを恐れさせる信仰の摩擦、いや不信仰ゆえの摩擦を打ち破り、暗闇から驚くべき愛の光へと、すべての人を招かれるキリストの光のもとにこそ、改めて身を置きなさい。この主のもとに、何度でも来て、何度でもキリストのもとにあなたを置いて、あなた自身もまた、生ける救いの石として、用いられてしまいなさい、と御言葉は告げるのです。あなたはそのために選ばれた神様の聖なる生ける石だ。聖なる神の家、キリストの体である教会を建て上げる、掛け替えのない尊い石、あなたはキリストのものなのだから、そのあなたは必ず用いられる。捨てられるのではない。人間の目には捨てられているように思えるその只中で、あなたは、あなたの真実な救い主、イエス・キリストに抱かれて、人々の救いのために選ばれた、霊的ないけにえとして、神様の聖なる喜びの内に受け入れられている。だから、あなたを献げなさいと主は言われるのです。キリストが命を捨てられるほど愛されている、尊いあなたを、人々の救いのために献げなさい。生ける御言葉を信じる奇跡が、永遠に朽ちないで残る、救いの奇跡の実を結ぶからです。