20/8/2主日朝礼拝説教@高知東教会
ペトロの手紙一1章17-21節、詩編24篇
「御子を与えられた父よ」
キリスト者は罪をお裁きになられる神様を、父よと呼びます。それは何よりも、その罪の裁きを、父は御子の十字架において私たちの身代わりに裁いてくださった父であること、私たちを、そこまで我が子として愛し求めてくださる父であることを、信じるから。信じて、父が与えて下さった御子イエス様を私の救い主ですと告白し、洗礼を受けて、本当に私は神様の子供、天の父の子とされたのだと信じるからです。
もしそうでなかったら、御言葉が言うように単に先祖伝来のむなしい宗教的風習として、まあ昔から神のことを父と呼んできたからと、中身がない、形だけで空しい宗教の形をやっているのと大して違いません。
何故、キリスト者が御子をくださった父を、父よと呼んで祈り、また愛するのか。ご自分のこととして改めて考えて欲しいと願います。それが私たちの、生活を変えるからです。具体的に言います。私たちの生活あるいは生き方を変える力には色々あって、特に強いのは欲望、求めでしょう。けど、何も求めそのものが悪いのではなくて、何故、求めるかが急所なのです。その求めが、どこから出ているか。自分から出る欲望もあれば、先週の14節のように、世の欲望の形と同じ形になっていくという欲望もあります。誘われて、誘惑されてとも言えるでしょう。でもその誘う相手との間に、愛と信頼関係があったら、その相手が誘ってくれなくても、その相手が求めていることは、したいと思うんじゃないですか。その相手が、御子を十字架に与えられるほどに私たちを愛してくださった父であるなら、父が求めておられるからと、自分の心が求めることは、もはや先祖伝来の形だけで空しい、意味のわからん宗教的生活ではありません。私たちの捧げている礼拝も、その中で告白する信仰も賛美も祈りも十戒も、もしその信仰的な意味や神学的な意味がわからなくても、贖いって何やったっけ?と思っても。でもこれは父から与えられた、父が求めておられる礼拝であり、信頼であり、父と、その子供である私の愛の関係を満たすものだから、だから私は、父に向かってこのことをするのですという行為は、全く空しくない。何故ならそこには、父と子の関係があって、その関係は、永遠に決して取り去られることはないからです。家族が行う様々な行為と同じです。空しく思える家事であっても。その行為には、関係という中身があるのです。
まず関係がある。まず関係から始める。そこから生活が変わります。もし!今朝の御言葉に、父との関係が抜けてしまったら、あなたは人を公平に裁かれる神を畏れて生活すべきだと、単に裁きの神を畏れよと、ビクビクして暮らす空しい宗教、十字架抜きの宗教を思うんじゃないでしょうか。例えば皆さんが夜くつろいでTVでも見ゆう時、突然牧師から電話がかかってきて、私は夕拝を捧げてたけど、あなた祈ってましたか?と言われるんじゃないかと、言いませんけど(笑)。でもそうやって神様は私の生活を監視しているんじゃないかと思う間違いは起こりうるのです。もしイエス様が命がけで私たちに与え、そして求められる、父との関係に生きてなかったら。あなたは本当に私の父なのです、父よと、父の子として生きてなかったら、神は厳しい管理者だと思い違うかもしれません。でも父と私たちの間にあるのは管理じゃない。関係です。まず関係から始まるのです。この世界そのものが、三位一体の父・子・御霊の愛の関係から始まったのです。その世界が神様との関係を嫌って、俺は俺、私は私の自己中心で、冷たい自己責任と暴力的な管理による罪の支配に奪われてしまっても、それでも、まず関係から始まった三位一体の父が、御子を私たちに与えられ、御霊を私たちの内に住まわせられることで、本当に御子と私たちを一つに結ばれた。この福音を信じる者を永遠に父の子としてしまわれた。それで私たちは救われたのです。関係が私たちを救うのです。行いじゃない。行いは、その父との関係から、三位一体の神様との関係から、新しく変えられて、生み出されていく、愛と信頼の関係の具体的な生活の形だからです。
先週の御言葉で、キリスト者になるのはキリストと結婚してキリストのものとなるのと同じだと言いました。二人はもはや一人だという関係に生きる。聖なるとは神様のものという意味です。だから聖なる者となれとは、私は神様のもの、キリストのものだという自覚で生きることです。例えばもし私が妻の夫としての自覚なしに生きて、俺は野口幸生だという自己実現に生きるなら、まあ妻から裁かれても仕方ない。婦人会からも裁かれるでしょう。当然です。そして聖なる父からも裁かれる。公平に。牧師割引なんてない。クリスチャン割引もない。あるのは、罪の負い目の全てを御子が支払って下さった事実です。十字架は何も割り引かない。一切の汚れと呪いと罪と死を何も割り引かないで御子が受けられて、それであなたは何者なのか、父の子、わたしのものではないのかと問われ、私たちは愛の裁きを受ける。この御子をくださった父を、畏れ敬って生活するのです。この愛の関係から全てが変わるからです。