ペトロの手紙一1章13-16節、レビ記11章44-45節 「イミタチオ・クリスチ」

20/7/26主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一1章13-16節、レビ記11章44-45節

「イミタチオ・クリスチ」

説教の題は「キリストに倣いて」という中世の本のタイトルから取りました。キリストに倣う。イエス様ご自身、わたしに学びなさい、わたしは柔和で謙遜な者だからと招かれました。そうやってキリストに倣いついていき、やがて主が現れる時には、主と同じ、完全に罪から解放された復活の体を頂いて、永遠の賛美と喜びに生きるのです。

それが私たちであると知っているでしょうか。引っかけ問題をしているのではありません。もし知らないと、キリストを知らない無知の頃の欲望に引きずられるから、心を引き締め、背筋を伸ばして、嘘の自分にならないように、聖なる者として生きよと言うのです。

これが私だという自覚。アイデンティティと言いますが、でっち上げられた自分ではなく、神様が保証される本当の私として生きる。この後の信仰告白式のために重ねた準備会で、また洗礼準備会でも必ず同じことを話します。洗礼を受けキリスト者として歩むのは結婚と同じだと。信仰告白の場合、幼い時から決まっていた婚約者と、自分から向き合って、私はこの人と一緒に歩みますと自分の口で告白するのと同じです。私は誰か。この人のものだと。他の誰のものでもないし、他の誰のものにもならない。そして他の誰にも心を奪われることは、この人のものである私の生き方ではない。それは姦淫だと、御言葉が「心を引き締め」と命じる道を選ぶ。腰のベルトをギュッと引き締めるという言葉です。何ならベルトの穴一個進む勢いで引き締める。愛する人に会うように。主にお会いするのですから。「身を慎んで」とは「しらふで」という言葉です。それは14節の「欲望」が人を酔わすからです。「無知であった頃の欲望に引きずられることなく」。これは「無知であった頃の欲望と同じ形になるな」が直訳です。欲望と同じ形になる。周りには色んな欲望が溢れています。歌にも、漫画にも、映画にも。こんな生き方をしたい、こんな恋愛がしたい、こんなファッションで、こんな車、こんな生活、こんな…。私は中学の時Back to the futureを見て、すぐ主人公が履いてたジーパンとジージャンを買いに行きました。帯屋町の中津へ(笑)。ジージャンは恐れ多いお値段でしたがジーパンは7千円。お年玉か何か前借りして買ったそのジーンズを履くと、もう冒険が始まるような(笑)、気分が高揚して、まさに心が欲望と同じ形になっておったと思います。その頃は、そんな私の生き方を、天の父がどんな思いで見ておられるかなど、全くの無知でした。もし学んだとしても、知るかという感じで、自分の好きな生き方で俺は生きるのだと思っていました。

でもキリストを知った今は、単にあの時は中二やったきというのではなくて、その後も、大人になっても、自分の欲望の形に生きることが、どんな生き方になってしまうのか、神様にも人にも、うしろめたい体験として知っているのです。世が作り出す欲望、そしてその欲望によって作り出された世の形と、同じ欲望の形に生きて、聖書がその一番初めに記し教える、人間は神の形に造られたという生き方から、どれほど自分は堕ちてしまったのかと、神様の前に悔いる思いがあるのです。それが神様を知ることの大切な中身です。単に知識として神を知るのでなく、私はこの方の前にとんでもないことをしたという罪の意識がある。神様を知るから、罪を知るのです。悪いことをしたと思っても、それを誰に対して悪いことをしたのか、私は誰に対して責任を負っていて、誰に、ごめんなさいと言わなければならないのか、いや、誰にごめんなさいと言ったらいいのか。そしてその罪を、誰が赦してくれるのか。時間を巻き戻せない、取り返しのつかない私の人生の罪を、しかし、身代わりに引き受けて、わたしが赦すと言ってくださった方がいる。神様が御子の十字架において、私の罪を背負って下さって、あなたの罪を赦すと、愛の眼差しで言って下さる。イエス・キリストの神様が私を赦して救って下さる。その神様を知っているから、この赦しと愛を知っているから、ただその神の愛を知る知識からのみ出発して、私たちは、この愛を知らなかった頃の欲望と同じ形になることを避けることができる。そして、主よ、私はあなたの形になりたいです!と生きていける。それが、神様の「従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣って」私たち自身、生活のすべての面で聖なる者となるという生き方です。

玄関脇の部屋すぐの棚に「モーセ」というビデオテープがあります。今は「十戒」という題でTSUTAYAにもあるので観てほしいのですが、1996年の製作。前のチャールトンヘストン版ではないほうです。その映画の終わりのほうに、神様から十戒を刻んだ石板をもらう前に、モーセと民が、十戒を朗唱する場面があります。主の雲に覆われたシナイ山のふもとで、主の霊に満たされた人が一人また一人と立ち上がり、十戒を順に告白する。順々に、それは大勢の人となり、最後は皆で神様に向かって十戒を告白する。私と妻はその場面で声を出して泣いてしまって、一時停止をしなければなりませんでした。これが聖なる神様の聖なる御心を神様に向かって告白することだ、私たちはこのように生きます、これが私たちの生き方ですと告白することだと思ったからです。私たちはこの聖なる生き方へと、大いなる神様の赦しと愛の中で召されている。この神様の召しに、私たちは、はいと答えて告白するのです。

この後、信仰告白式を執り行いますが、そこで改めて神様の前に告白してほしいと願います。これが私たちの本心ですと。この聖なる信仰、聖なる生き方を望まれる、聖なる神様の心からの求めと同じ形に、私たちも生きていきたいです、この愛を本気で私たちとの間に望まれる神様こそが、私たちの十字架の神様ですと告白するのです。そしてその愛の形に生きるためにも、私は、イエス様、あなたが必要ですと告白する。この愛と救いの告白の中に、皆、召されているのです。