ペトロの手紙一1章10-12節、イザヤ書52章13-15節 「見て確かめられる救い」

20/7/19主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一1章10-12節、イザヤ書52章13-15節

「見て確かめられる救い」

天使たちも、見て確かめたいと願っている救い。この救い。先に読みました旧約聖書の預言者イザヤも、また他の預言者たちも、おお、この救いは、いつ、どんな形で与えられるのだろうかと、知りたいと願っておりましたし、自分たちの時代であったら良いのにと、きっと思っておったのです。でも実際には、三位一体の御子なる神様が人となられて、十字架で死なれるためにこの地に来られるまで、世界はこの救いを受けることはできませんでした。無論、救いの約束のもとにありましたし、キリストの償いは全ての時代の人々に及ぶのです。でも実際には、誰がこれを受けたか?そう、あなたがたです!ならばその救いを、あなたはどうしますか?この救いを受けたあなたは、これからどう生きていきますか?これは自分の人生だからとは、もうならなくなるのではないかと問うておりますのが、今朝の御言葉です。

今の状況に重ねるなら、新型ウイルスのワクチンができたら(ただしワクチンは100%の治療法ではないことを予め断った上で譬えますが)、人々がこの病と死から、敢えてこう言いますが、救われるから、だからいつワクチンはできるんですか?それは本当にこの病と死から救ってくれるんですか、どのように救われるんですか、ああ一刻も早くワクチンが与えられたらいいのにと願って、実際、私たち祈っているでしょう。同様に預言者たちも祈ったと思います。しかも切実に。もし、私たち、自分の愛する人が、この病故の危機に面していたら、涙と共に天の父に祈ると思います。ローマの信徒への手紙8章には、苦難の中でどう祈ってよいのかさえわからない私たちの、内に与えられた聖霊様が、うめいて執り成してくださると約束されています。そのうめきと執り成しを、預言者たちは知っておったに違いないのです。11節で「自分たちの内におられるキリストの霊が」と言われるのは、預言者たちにキリストの証の業を執り成される、この聖霊様のことを言うのです。

彼らも、また天使たちも、この救いについて、まるで他人事のように調べたり、見て確かめたいと願っておったわけじゃありません。まるで新聞を読みながら、へ~、○○という薬が効くかもしれんがか、どんな薬やおとスマホで検索するような調べ方ではないでしょう。預言者からしたら、自分の愛する民が、先に病に譬えましたけど、私たちを死と滅びに至らせる、罪の病から、救われるのかどうか。本当に救われるのでしょうか。主よ、まったく救われるように見えないのです、どうかこの民を、私たちを憐れんで下さいと、人々のために、その罪を執り成して祈ったのです。だから先に言いました愛する者のために切実にワクチンを待ち望みながら、いつできるのだろうかと調べている人のような態度で、自分のこととして調べておった。それが預言者です。そして御言葉は問いかけるのです。あなたは、そのワクチン、キリストの救いをもう受けた。この病で滅びることはもうない。なら、どう生きていくかと。

天使についてのイメージで私が思ったのは、少し偏っていて色も青いかもしれませんが、白衣の天使。看護師さんたちの姿です。天使は神様の遣いですから、あれして、これしてと頼まれ、薬を持って行ったり、動き回って大変ですけど、自分のために大変なわけじゃない。病を患う人の救いのために、遣わされてフル回転で人を助ける。新型ウイルスの病棟で働く看護師さんたちは、自分も感染して死ぬかもしれないので、そこは天使とは違うかもしれませんが、なら天使は単に自分の興味で、この救いはどんな救いで、この人はどう救われるがやろう、と思って、自分が遣わされて担当している人を、他人事で見ているのでしょうか。もしそうなら、白衣の天使以下。でも、天使たちは知っているのです。人間が罪と死と滅びから救われるための言わばワクチンを作るために、一体どんな犠牲が払われたのか。実際のワクチン製造でも言わば実験のように被験者が必要です。誰かの救いのため何の犠牲も払わないということはないのです。天使たちは知っているのです。人間が、自分たちの罪による裁きと死と滅びから救われるために、じゃあ誰が犠牲になったのか。神様が、永遠の三位一体の御子を、神の独り子を犠牲にして、罪の病から人間を救い出すための救いのワクチンを、全く新しく創造してお創りになられたことを。そして、そのワクチンを受けた人々は、それによって自らの内に、永遠の三位一体の御霊を受けて、その聖霊様によって御子の血の効力を受けて、十字架の赦しを身に受けて、全くの自分の力によるのではない、キリストの命の力と、死による赦しの力によって、永遠に救われるのだと、天使たちは御子を見て、三位一体の神様をあがめ、仰ぎ見て、知っているのです。そしてその天使たちは、自分の担当しているキリスト者たち、あるいは教会を見ながら、じゃあ一体、どんな思いで今!この救いを受けた、私たちを見ているのか

そこで先に言いました白衣の天使たちを思い起こして欲しいのです。念願のワクチンができて、自分の担当する高齢、あるいは疾患を抱える患者さんたちが、やっとワクチンを受けるのを見たら、どんなに嬉しいか。良かったと、涙が零れる人もおると思います。そしてそれは誰かが教会で洗礼を受ける時も同じであることを、それを見ている天使たちは知っているのです。天使が涙を流すかは存じませんが、案外、涙もろい天使もいるのかもしれません。

でも、洗礼を見て終わりではない。それは、今朝の御言葉の始まりの10節で「この救いについては」と言われていることが急所になります。この救い。どの救いなのか。上の段5節を改めて読みます。「あなたがたは、終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって(直訳は信仰を通して)守られています」。

「この救い」は、洗礼を受けて終わりじゃなくて、言わばワクチンを受けて終わり、退院じゃなくて、むしろ、そこから終わりの日のゴールに向けての、救いの完全な癒しが、その信仰者の人生に始まったことを天使は知っている。その人が終わりの時に現わされるように準備されている救いを受けるため、どのように神様の力によって守られて、信仰を通して救われるのか。この救いの恵みを、天使たちは、キリストと結ばれた私たちの人生に見たいのです。この私たちにです。即ち、キリストから、わたしについてきなさいと選ばれ召され導かれ、その十字架の愛と赦しの力によって、罪を犯す私たちであって尚、終わりの日に現わされる救いのために、十字架のキリストの愛の背中に背負われて、守られキリスト者とされている私たちの救いの内に、あなたが日々キリストに救われて、もっともっと罪から自分自分から悪魔から救われて、最後には、どんな栄光に満ちた救いを受けるのかを、もっと見たいと天使たちが願っている。「この救いを、信仰を通して受けた私たちは、どう生きるのか。どんな信仰によって、終わりの日までの人生を生きるのだと、神様によって守られているのか。その救いを、あなた自身も、自分の目で見るのだと、私たちは主から招かれているのです。

どんな救いなのか。それを見て確かめたいと思っているのは、私たちがキリスト者だと知っている周りの人々も同じかもしれません。本当にキリストの神はいるのかと。いるなら、何で試練に遭うのかと。そこでその人たちにも見てもらうのです。ウイルスのワクチンは受けてなくても、もうキリストの救いを受けた私たちの救いを。自分で自分を救えない、だからこそ救おうとしないで、キリストの恵みを唯々信じ、十字架を仰いで祈って愛し合う私たちの信仰を。一層、天使たちはそこで身をかがめて見るでしょう。キリストの恵みによる救いが、ここにあると。