ペトロの手紙一1章3-9節、詩編66篇 「魂は朽ちない宝を喜ぶ」

20/7/12主日朝礼拝説教@高知東教会

ペトロの手紙一1章3-9節、詩編66篇

「魂は朽ちない宝を喜ぶ」

この手紙はローマ帝国による迫害の手が、いつ自分にも襲い掛かってくるだろうという不安の中にあった教会に向けて書かれた手紙だと言われます。今の私たちに引き寄せるなら、いつ自分もウイルスに感染するかわからないという不安と重ねることもできるでしょうか。感染が不安じゃないという方もおられるでしょう。むしろ大雨被害が報じられる中で、今もし南海トラフ地震が襲ってきたらと、避難所の様子を見ながら不安を覚えるのかもしれません。

いつ、今の生活が失われてしまうか。誰も本当にわからないのです。いつでもそうなのだと思います。どの時代でも、誰にとっても。半年前の時点で後の生活状況を予想していた人がここにおられるでしょうか。いつも後になってから、まさかこんなことになるとは、と思うのです。迫害であっても、災害であっても。それに備えておったとしても、それでもきっと、それが来る時は突然やって来て、そして失いたくないものを、私たちは失ってしまう。

失ってもよいものは、どうでもよいのです。本当に、どうでもよい。捨てられないで置いている服とか本とか。早く処分したほうがスッキリして、重荷を下ろした喜びさえ感じるということを、それをしたことのある人はご存じじゃないでしょうか。新しい気分で、それでまた結局、どうでもえいものを手に入れる愚かな繰返しも、人間はやってしまうのですけど、皆さん、どうでしょう。本当は、もうそうしたどうでもよいものから自由になって、重荷を下ろした喜びのままで、朽ちるものから自由にされた喜びの人生を送りたいんじゃないでしょうか。本当に大切なことだけに集中して。それは例えば人からすれば小さな幸せだったりもするのです。譬えるなら昭和の時代の四畳半のアパートでお金のない親子が、このお味噌汁美味しいねって笑ってご飯を食べるような幸せ。無論、令和の時代でも新築の一軒家でもよいのです。でも、もしそれらが失われたっていい。でもこれだけは失われてほしくないと思う、共に笑って命を共有する人生の喜び、信頼する愛する人と一緒に生きられる喜びを、神様が私たちに望んで下さった。それが神様の救いです。あなたがもし、すべてを失ってしまったとしても、わたしとの永遠の喜びのいのちは決して失うことがないように!と、三位一体の御子を与えて下さった。私たちの主として!私たちの代表とされて、すべての罪と裁きと死を御子に代表として負わせられて、御子がそれを負い切って下さった。三位一体の神様なのに、人の代表となられて死に切って下さって、裁きを負い切られて復活して下さったから、だから私たちは、死んでも終わりじゃないのです。さっき言いましたイメージで言えば、イエス様と食卓を囲んで、笑顔で囲んで、たぶん最初のご飯は泣きながら食べて味が分からないのに、美味しいですって泣き笑いしながら、神様の家族の食卓を囲むのです。

順番で言えば、その前に永遠の目覚めがあります。もし死んで全てが終ったと思って死んでしまったとしても、私には御言葉が心から喜んでと言うような立派な信仰者の生き死にはできませんと、もし思うような死に方をしたとしても、次の瞬間に目覚めて、その目に飛び込んでくるイエス様の顔を見た時に、あ、イエス様や!とわかるのです。見たことがないのに!イエス様やって、言葉にならない喜びが満ちて来て目から溢れて、黙示録に書いてある通りに、イエス様がその涙をぬぐって下さって、さあ一緒にご飯食べようって笑って言って下さる。そして、その喜びこそ終わらんのです。永遠というのは、単に時間が続くのではなくて、ああこの幸せがいつまでもいつまでも続いてほしいと思う、終らないで欲しいと思う、そしてそれが本当に終わらないのが、私たちを罪と死と裁きから救って下さる神様が、共に生きて下さる永遠なのです。

5節で、あなたがたはこの救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られていますと言われますが、直訳すれば「信仰を通して」です。私たちが自分で頑張って信じているから守られるのではなくて、言わば信仰はお腹の赤ちゃんとお母さんをつなぐへその緒で、へその緒が赤ちゃんを生かすのではない。でも、じゃあなくてもよいというものでは決してない大切ないのちの絆。それがキリストと信頼関係で結ばれる間柄、信仰という絆です。でも信仰を自分の手柄と思って陥りやすい誘惑があって、なんだ信じたのに守ってくれなかったと、ご利益信仰のような信仰生活つまり自分中心の信仰になって、その意味で試練に遭うことはあるのです。人は、先に言いました、本当はどうでもよいものに囲まれて生活していて、それらに支配されるようにして、本当に大切なものを見失ってしまう。失ってもよいものを失いたくなくて、失ってはならないものを失ったと思うような信仰生活をするという罪深さ、弱さが誰にでもある。この手紙を書いたペトロにとっても自分が!自分!が信仰の主語でもあると思う誘惑が強くて、だからこその試練に遭って、その試練によって何度も思い知らされてしまうのです。自分という欲望や自分信仰が、どれほどキリストを信頼するピュアな信仰を邪魔しているかを。本当は神様から始まった、恵みとして与えられた信仰なのに、先の言葉で言えば、どうでもよい自分自分のこだわりで、その恵みによる信頼関係の絆を覆って、本物の信仰を自分自分で覆い隠して、自分が信じているから救われるとか、こんな信仰じゃ救われないとか、それ、キリストじゃなくて自分やかという嘘の信仰に振り回される。そうした弱さ、罪深さ、朽ちる思い、汚れた欲望、しぼんでなくなってしまう他ない朽ちる人間の人間による人間のための信仰もどきは、しかし試練の中でこそ試される。ああこれは自分の思いだった、信仰じゃなかった、本物の信仰、純粋で混ざりもののない信仰は唯一つだ。それは、こんな罪深い私を神様が愛して、深い憐れみによって、御子を私の身代わりに十字架で裁いて死なせられ、私の罪を償って下さった!それはすべてが全くの神様の恵みによるのだ!と、そんな私が救われることを、神様が望んで下さって、こんな私を求めて下さって、御子を身代わりにされるとは!神様ありがとうございます、イエス様あなたを信じます、私の罪を赦して下さい、あなたが私の救い主ですと信じ告白する信仰。これが本物の神様の恵みだと、試練を通して証明されるのです。自分の信仰は残らないから。自分から出発した愛とか喜びとかも残らないから。見たことがないのにキリストを信じて、主の喜ばれる者になりたい、御心に従いたいですと、主を愛する愛も喜びも、自分から出たのでしょうか。そうではないから喜べるのでしょう。こんな思いが自分からは出んよなとわかるから、嬉しくなってしまうのでしょう。主は生きておられると嬉しくなるから。キリストを受け入れ、洗礼を受けた私の内に、本当に主は来て下さって、信仰を与えて下さって、言葉にならない、説明できない信仰の喜びを、我が内に宿らせてくださって、だから7節の後半で「イエス・キリストが現れる時には称賛と光栄と誉れとをもたらす」と言われる、その信仰は、神様に!称賛と光栄と誉れをもたらすのです。自分にじゃない。主を賛美したい。こんな嬉しい信仰の絆によって、私をイエス様に結び付けてくださった、一心同体にして救って下さった、御名を褒めたたえます!と、御国は賛美で埋め尽くされるのです。

私たち、朽ちる思いや悩みがあっても、だから大丈夫。だからこそ、御子を与えて下さった神様の力によって守られて、試練を通って、悩みながらも、主の恵みを思い、人間の思いでは説明できない不思議な喜びに慰められて、キリストの真実を証しする者として歩めるからです。